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2020年5月16日 (土)

大内弘直の討死1

 さて、いただいた課題は、建武三年七月四日に周防国敷山城に籠城していた「謀叛人小笠原長光」と七月七日に益田大山で尊氏の命により討たれた大内弘直に関するものであった。
 河本郷小笠原氏が阿波小笠原氏の出身であるとの通説に対して、それに限定するのではなく、周防国にも小笠原長光がおり、信濃小笠原氏を含めて検討すべきと井上寛司氏が説かれた論文で、長光の存在を認識した。弘直については大内氏の一族が大山で戦死した人物がいたという程度した知らなかった。両者の間に関係はあるのだろうか。
 以下に記すのは当座の説であり、後にきちんと検討したい。大内氏については一四世紀後半の弘世とその子義弘・満弘兄弟について検討したことがあるが、その前史は今後の課題であった。その際に最新の研究成果を確認するため『山口県史』通史編中世を見たが、中世前半はベテランの執筆陣のみで、新たな見解の香りすら感じられず落胆した覚えがある。以前も述べたが、『萩閥』等の既成の成果をリセットして再検討する必要がある。とりあえず大内氏については手元にあった『室町幕府守護家辞典[上]』を参照し、必要に応じて佐藤進一氏『室町幕府守護制度の研究』に依拠した。前者は一九八八年の刊行で、大内氏については利岡俊昭氏が執筆している。一九三五年(昭和一〇年)の生まれである。
 大内氏は周防国の有力在庁官人で、建長二年の閑院内裏造営役では築地八八本中の三本を「大内介」が負担している。二本の東国御家人もおり、この時点で周防国有数の国御家人であったと思われる。建治二年の六条八幡宮造営では一〇貫文を負担している。
 建治二年以降は北条氏一族が周防国守護であり、幕府滅亡時に当主弘幸は長門探題北条時直に従ったため、建武政権下では伯父鷲頭長弘が周防守護に補任された。弘幸は動乱期には尊氏に従ったが、長弘も同様で守護の地位を貞和四年までは維持した。その後、足利直冬が長門探題となった際に、上総左馬助が周防守護となった。「貞和五年の防長守護」で述べたように吉良有義に比定でき、因幡守護からの遷任であった。直冬与党であったため、年末には直冬の探題解任により、大内長弘が守護に復帰した。しかし翌年一〇月までに長弘は直冬方に転じ、幕府方の守護職を失っている。この時点で大内氏惣領弘幸の嫡子弘世も直冬方となり、これ以降、鷲頭家を圧倒する勢力を持つ。
 話を戻すと、弘直は大内氏惣領弘幸の弟である。弘幸が建武政権下での冷遇から尊氏方となったのに対して弟弘直は南朝方となったのであろうか。その討死が「建武三年七月七日」と北朝年号であることに違和感を覚えたが、これは大内氏の系図が最終的に北朝年号を採用したことによるようだ。

 

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