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2020年5月27日 (水)

平頼盛について2

 父後白河院と二条天皇は政治の主導権をめぐって対立しており、頼盛の立場は天皇親政派にほかならなかった。次いで仁安元年八月に従三位公卿となった頼盛は一〇月には大宰大弐として九州に赴任するとともに、皇太后(呈子)宮権太夫に補任されている。呈子は藤原伊通の娘であるが、美福門院並びに藤原忠通の養女となり、多子に対抗する形で近衛天皇に入内し中宮となった。こちらは近衛が死亡後、皇后を経て、保元三年二月に統子内親王が同母弟後白河の皇后になったことで皇太后に移った。次いで、高倉天皇の母平滋子を皇太后とするため、仁安三年(一一六八)三月には呈子は院号宣下により九条院となった。同年一〇月に頼盛は参議に補任されたが、一一月二八日には子保盛とともに後白河院によって解官された。一年後に出仕を許され還任したが、頼盛は後白河院や平清盛の正室時子の異母妹滋子(建春門院)との間に一定の距離を置いており、そうした中で八条院に接近したとされている。
 建春門院が安元二年(一一七六)七月に死亡すると、後白河院と清盛の利害の対立が表面化する。翌年六月には院近臣による平氏打倒計画とも言われる事件が発覚し、参画した院近臣が処分されたが、その中に妻八条院女房の兄弟である法勝寺執行俊寛が含まれていたことで、頼盛の平氏内部での立場は動揺した。そして治承三年一一月には清盛が後白河院を幽閉するクーデターを起こした際には、頼盛も一旦は右衛門督を停止されている。二ヶ月後の治承四年正月には復帰を認められ、所領が没収されることもなく、四月に従二位、六月には正二位と優遇された、その最中の五月には八条院の猶子となっていた後白河院の子以仁王が挙兵した。頼盛は八条院のもとに派遣され、以仁王は鎮圧されたが、治承五年正月には高倉院が、閏二月には清盛が死亡し、後白河院の院政が復活した。平氏の総帥となった清盛の子宗盛は嫡子清宗と頼盛の娘との間の婚姻を実現したが、寿永二年七月には源義仲軍の入京が迫る中、宗盛以下の平氏一門は安徳天皇とともに都落ちしていった。頼盛は結果として後白河院と同様都に留まったが、入京した義仲により、頼盛も解官された。この後、頼盛は八条院の庇護のもと、挙兵後、鎌倉を掌握した頼朝との間に連絡をとり、後白河と対立した義仲が武力クーデータを起こすと、一条能保、持明院基家らとともに鎌倉に亡命した。
 とりあえずここまでとし、後は関係する人物の計歴を確認した上でまとめたい。

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