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2020年5月22日 (金)

武蔵国成田氏について2

 寛喜三年(一二三一)時点の武蔵国内の安保信員領は安保郷内別所のみである。これに対して正中二年(一三二五)に安保信阿(行員)が嫡子又次郎基員に譲った中に成田郷地頭・郡司職箱田村、平戸村内信阿知行分が含まれていた。一方、文保二年(一三一八)一二月二四日関東下知状により、安保二郎行員法師信阿は祖母藤原氏跡である陸奥国鹿角郡内柴内村の領知を認められている。祖母は成田左衛門尉家資の娘であり、家資から譲られた所領であった。成田郷内箱田村と平戸村も祖母跡であったと思われるが、この安堵状に含まれないのは家資ではなく母=助綱娘から譲られた所領のためか。
 次いで暦応二年(一三三九)九月二〇日に安保左衛門尉基員が嫡子「くすハう」に譲ったのは成田郷内成田が加わっている。建武三年(一三三六)に軍忠により幕府から成田郷内闕所等を与えられたもので、具体的には譲状に記す恩賞地成田四郎太郎秀綱跡と同五郎左衛門入道跡、平戸小八郎跡であった。成田氏系図の内容には不明な点が多いが、吉羽本によると助綱(系図では四郎だが、『吾妻鏡』では七郎)には子資泰と家資がおり、竜淵寺本によれば、家資は助綱の弟(八郎)であったが、養子(吉羽本の四郎が正しいか)となったとする。具体的には助綱の娘を妻とした可能性が高い。その結果、助綱分成田郷の中心部分である成田村は三郎資泰(承久の乱で討死)に、養子四郎家資には箱田村と平戸村が譲られた。ただし、三村はすでに分割して譲られており、助綱の兄弟太郎広能(保元の乱で死亡)の子孫が箱田氏を、五郎助忠が成田氏、九郎某が平戸氏を苗字としている。
 文永八年(一二七一)杵築大社結番帳には能義郡坂田郷地頭として成田五郎入道が、意宇郡宍道郷地頭として成田四郎がみえた。前者は五郎助忠の子孫(孫に五郎あり)で、後者は四郎家資の子であろう。これとは別に承久の乱の勲功の賞として和泉国信太郷が成田氏に与えられているが、これは資泰の討死によるもので、その子孫が継承したと思われる。次いで、建武三年に安保基員が得た成田村内成田四郎太郎秀綱跡とは、家資流の嫡子に受け継がれたもので、五郎左衛門入道跡とは五郎助忠流に受け継がれたものであったと考えられる。
 以上をまとめると、安保基員領の成田郷箱田村内と平戸村内は陸奥国柴内村は曾祖母跡(その父家資領と母助綱女領)で、成田村内は家資嫡流と助忠流の所領であった。そして、応永二年(一三九五)二月に成田下総入道道成(基員子くすハうヵ)が、播磨国須富庄北方地頭職について祇園社との間に契約を結んでいる。須富庄は寛喜三年以来安保氏領であったが、安保氏が成田氏領を継承し、その活動の拠点を東国に移すと、近隣の領主河原氏による押領が続いていた。それを祇園社との契約により押領を防ごうとしたのである。
 応永一八年に竜淵寺を開いた家時は資泰流家綱の子で、その嫡子は五郎左衛門尉資員、嫡孫は下総守顕泰で、その子孫も下総守を継承している。その背景として考えられるのは家時と安保下総入道道成娘との結婚である。資員の誕生は応永九年で、同二七年に家督を相続している。なお、課題は残されているが、大まかな流れをトレースしてみた。
 承久の乱では助綱の子資泰流(出雲国宍道郷)と養子家資流(陸奥国石川、柴内等)、さらには助綱の兄弟助忠流(出雲国宍道郷)、某(和泉国信太郷)が恩賞を得ている。その後、幕府滅亡と南北朝動乱により家資の娘の子孫である安保氏が成田郷箱田村内、平戸村内に続いて成田村内も得た。安保氏は丹党で、成田氏領宍道郷と、それに隣接する来海庄も南北朝期に一時的にではあるが得ている。来海庄は成田氏の同族とされる別符氏領であった。正平七年(一三五二)二月一五日には成田備中権守藤原貞頼が庄内弘長寺に文書を発給している。正平一四年五月三日には南朝により成田七郎左衛門尉跡である宍道郷南方が某に兵粮料所として預けられている(益田家文書)。永享一一年(一四三九)二月二一日に安保氏の一族であろう痰氏碧彦二郎と弥三郎が来海庄新庄分弘長寺領等を寄進していることから、それを確認することができる。

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