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2020年5月11日 (月)

出雲・隠岐守護再考

 何度かこの問題について述べているが、もう一度確認する。
 課題としてあるのは、守護職の譲与・相続は可能だったのかということである。佐々木隠岐入道義清は延応元年(一二三九)一二月二九日時点では生存していた。その子佐々木信濃判官泰清の死亡は、弘安五年(一二八二)六月頃である(同六年六月二九日頼泰書状で一周忌について言及)。地頭職については生前から譲状の作成は可能だが、それを幕府が安堵するのは当主の死亡時であった。守護職についても形式的には現守護の死亡により交替すると考えられる。
 嘉禎四年(一二三八)初守護リストで出雲・隠岐は「隠岐次郎入道」と記されていたのを「隠岐次郎左衛門尉」の誤りとしたが、「隠岐五郎入道」の誤りに訂正する。形式上の守護はなお健在であった義清で、実際にはその長子政義が出雲守護、次子泰清が隠岐守護であった。伊藤邦彦氏が守護代と区別して使用した代行、名代の例となろうか(守護関連史料で守護代を守護、守護人と呼ぶ史料は少なからず有る)。次いで義清の死により、両人が形式的上でも守護となり、仁治四年(一二四三)の政義の無断出家により、泰清がその所領(地頭職)と出雲守護職を与えられた。
 弘安五年の泰清の死以前に、出雲守護は子三郎頼泰、隠岐守護は七郎宗泰が代行していた。次いで泰清の死により、嫡子次郎時清が形式上の出雲・隠岐守護となった。弘安七年九月七日に頼泰が北条時輔とその子息の経廻について、鰐淵寺衆徒へ「執達如件」形式の文書で伝えているのは代行していたためである。その後、嘉元元年五月に時清が嘉元の乱で討死した際、ないしはその子宗清が正和四年(一三一五)に死亡した際に頼泰の子貞清が正式に出雲守護となった。宗清の死亡時、嫡子清高は二一歳であった。
 正和三年三月八日に貞清が祖父泰清と父頼泰の奉賀を継承し、銀塔一基を鰐淵寺三重塔に安置している。これに先立ち乾元二年(一三〇三)四月一一日には鰐淵寺北院三重塔と南院薬師堂に修理料田一町ずつを寄進している。父頼泰の死亡をうけてのものであろう。その時期は貞清が幕府から大社造営奉行の沙汰を命じられている正安二年(一三〇〇)閏七月五日の少し前であろう。隠岐守護は時清の子宗清、孫清高に継承され、なお健在であった高岡宗泰(沙弥覚念)が実務を代行していた。嘉暦元年(一三二六)に貞清と覚念が相次いで死亡した。出雲守護は貞清の子高貞が継承し、隠岐守護代行は覚念の養子宗義が継承したが、宗義は四年後の元徳二年に死亡し、子師宗に交替した。そうした中、元弘の変により後醍醐が退位し、元弘二年(一三三二)には隠岐に配流された際には正規の隠岐守護清高がその護送にあたった。

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