koewokiku(HPへ)

« 大竹寺地頭志貴氏について | トップページ | 飯石郡の地頭2 »

2020年5月 6日 (水)

飯石郡の地頭1

 前に述べたように、過去には飯石郡内としていた伊秩庄を神門郡内に変更している。須佐郷とともに両郡の境界に位置した庄園である。
 須佐郷は鎌倉初期には杵築大社国造出雲宿祢の同族が郷司を務めていたことが確認できるので、承久の乱により出雲宿祢が所帯を没収され、北条得宗領となったと思われる。出雲国西部では斐伊川東岸の神立(古代の大社神戸の流れを引く大田郷に隣接)とともに得宗領となっており、大社との関係で設定されたのであろう。国造職をめぐる争いで新興勢力である出雲宗孝流に国造の地位を奪われた一族が須佐国造となっている。永正八年の棟札によれば寛元元年と永仁六年(一二九八)に造営が行われたことを記し、由緒書では前者を将軍頼嗣(この時点では将軍は父頼経)が、後者を久明親王(尊氏とするものもあるが誤り)とする。寛元元年は得宗北条経時の就任の翌年で、永仁六年は得宗貞時により永仁徳政令が出された翌年である。須佐郷地頭職は幕府滅亡により建武政権によって没収されたはずだが、はっきりしているのは崩壊後の建武五年に足利尊氏が石清水八幡宮に寄進している。
 文永八年の熊谷郷地頭「逸見六郎」は甲斐源氏に属する東国御家人である。和田義盛の乱で義盛方として討たれた中に逸見氏の一族三人がみえ、勢力を低下させた。承久の乱への関わりは『吾妻鏡』では確認できないが、『承久記』には東山道軍の中に「逸見入道」がみえる。『尊卑分脈』には逸見太郎惟義が勲功の庄として摂津国三条勅使田を得たとし、乱後の和泉守護人としてみえる逸見入道を惟義に比定する説もある。文暦元年(一二三四)一一月一三日には六波羅探題から逸見入道に対して、近衛家領として立券された日根庄に対して地頭や守護代から非論をなすものがあれば成敗するよう命じている。これに基づき佐藤進一氏が承久~宝治年間に逸見入道が和泉守護であったと評価したが、伊藤邦彦氏は乱後の守護正員は北条重時であり、逸見入道はその職務を代行する立場にあったとした。近年確認された嘉禎四年始の守護リストでも重時が守護である四ヶ国に和泉が含まれており、伊藤説が正しいと思われる。守護代は別にいたが、探題が守護兼務であったため、このような体制となったのであろう。宝治元年五月の京都新日吉社小五月会の流鏑馬で、六波羅探題北条重時が催した一番の射手を「逸見四郎源義利」が勤めており、北条氏との関係を深めていた。
 弘安九年閏一二月一三日の逸見六郎有綱書状が残されている(久米田寺文書)。和泉国久米田寺の別当となっていた得宗被官安東蓮聖から荒野を寺領とする申請があったことを了解する内容で、貼紙には「弘安九年逸見六郎施行」と記されている。有綱は和泉守護北条時村(六波羅探題北方)の代官として施行しているのだろう。ただし、義利と六郎有綱は『尊卑分脈』では確認できない。 

« 大竹寺地頭志貴氏について | トップページ | 飯石郡の地頭2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 大竹寺地頭志貴氏について | トップページ | 飯石郡の地頭2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ