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2020年5月12日 (火)

出東郡の地頭

 出雲大社領には地頭が設置されず、最終的には神主職を独占した国造家が実質的な地頭となった。ただし、一四世紀半ばの半済令により、守護が大社領に関与することが可能となった。その時点の本家は応永三〇年に山科家による押領を訴えた柳原宮(永嘉門院から継承)であろうが、その立場は天皇・院領とは異なり、実権は領家が持っていた。明徳三年の京極氏による北島・千家村寄進もそのような背景でなされたものである。出東郡最北端の宇賀郷地頭西郷氏は、戦国期にその文書を三刀屋氏が入手したようで、文書そのものは伝わらないが、三刀屋文書中の文書目録にみえ、遠江国御家人であった。駿河・遠江御家人は幕府成立当初、武田(一条)氏の勢力下にあったが、武田氏が没落すると、幕府の有力御家人が惣地頭となり、本来の御家人は抑圧されていた。それが、梶原景時追討や承久の乱で当該国御家人が勲功を上げ、西国に新たな所領を得た。西郷氏の入部は承久新恩である可能性が大である。
 国富郷は承元二年一一月に杵築社権検校に補任された内蔵孝元が地頭に補任された。本来、内蔵氏が郷司であったのが地頭に変更されたものである。孝元は濫妨によりまもなく地頭を解任されたが、その後任も内蔵氏(孝幸)であったのはそのためである。文永八年の地頭狩野氏(為佐、評定衆)は承久新恩であろう。漆治郷は建久五年には庁事藤原孝政が郷司であり、文永八年の地頭宇都宮氏(下野入道女子)も承久新恩であろう。これに対して、鎌倉初期以来の地頭補任の可能性があるのは、近衛家領福頼庄である。近衛氏と平氏が結んだ(以前は平氏による押領とされた)ことで、平氏の家人が摂関家領の庄官に起用されることが多かった。そのため、平家没官領・謀反人跡として東国御家人が地頭に補任された可能性が高い。ただし、文永八年の地頭長野入道子の出自が問題となる。武蔵国の有力御家人畠山重忠の弟に長野三郎茂清がいたが、元久二年(一二〇五)六月に重忠とともに滅ぼされている。桓武平氏畠山氏は足利氏から入った養子が継承し、清和源氏となった。上野国御家人長野氏と畠山氏一族長野氏の関係は不明である。
 林木庄と美談庄は九条家領で、林木庄は一二世紀後半は皇嘉門院領で、その後、弟九条兼実領となっている。美談庄はさらに成立が遅いと思われ、林木庄とともに平氏の影響は受けていない。ともに地頭補任は承久の乱後であろう。林木庄地頭深栖氏は下総国出身であるが、建治二年の六条八幡宮造営注文では鎌倉中にみえ、有力御家人であった。永仁年間の大和国で、深栖蔵人八郎源泰長(清和源氏頼光流)の活動が確認できる。美談庄は守護佐々木泰清から長子義重に譲られたものである。志々塚保地頭が「持明院殿」とあるのは守護泰清から室町院(持明院殿)に寄進されたためである。得宗北条時宗領である神立は田数は未記載だが、出東郡から神門郡への渡る要地であった。氷室庄地頭信濃僧正(道禅)は幕府の法会に導師としてみえ、幕府領を与えられていたものであろう。元弘三年四月一一日に後醍醐天皇が国富庄と氷室庄を大社に寄進しているが、没収した地頭職である(ただし、政権崩壊で無効となる)。吉成保地頭土淵氏と宇屋新宮地頭泉氏は武蔵国、波根保地頭西牧氏は信濃国御家人で、建部郷地頭桑原氏は信濃ないしは武蔵国御家人であり、いずれも承久の乱以降の地頭であろう。唯一、所領名を名乗る福富太郎入道は国御家人であろう。
 出東郡は一部を除き、鎌倉初期に東国御家人が地頭に補任されることはなかったが、承久の乱により出雲大社領を除けばほとんどが東国家人領となった。なお、阿吾社は文永八年時点では三番相撲頭に編成されており、杵築大社領ではない。

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