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2020年5月16日 (土)

大内弘直の討死4

 翌年正月一一日に上野頼兼は、尊氏からの感状を内田熊若丸に伝えるとともに、なお国外で南朝方にとどまっている父致義跡を没収して、熊若丸に預けている。熊若丸も畿内で活動していたが、これを契機に所領である石見国俣賀村に戻ったと思われる。
 四月五日には上野頼兼が、安芸国大朝庄大塚・目河原地頭吉川辰熊丸に対して、凶徒襲来への防戦を賞するとともに、三隅城への発向を用意する用命じている(吉川家文書)。辰熊丸は当時頼兼の指揮下で長門国で活動していた。これに対して四月三〇日には足利直義軍勢催促状が出され、大朝本庄枝村・田原・竹原地頭吉川五郎次郎(経盛)に対しても、石州凶徒誅伐のため守護(『大日本史料』『南北朝遺文』は上野頼兼と注記するが、誤りであり、安芸国守護武田氏)とともに安芸国から石見国に発向することが命じられている。五月四日には石見国長野庄惣政所虫追政国に対して長門国賀年城警固が命ぜられ、政国は一族を率いて籠城したところ、石見国凶徒三隅太郎(兼知)、高津與次(長幸)らが二二日に攻めて来たとする。攻撃側の石見守が周布郷一分地頭内兼茂が賀年城攻撃の際に家子・中間が負傷した際の実検状を作成している。この時点では南朝側が石見国外で攻勢をかけていた。
 これが七月には幕府方が石見国で攻勢に転じている。四日には周防国仁保庄一分地頭平子孫太郎親重が、大将軍上野頼兼、周防国守護代厚東修理亮とともに高津氏一族が籠城する上黒谷城を攻撃し、八月二七日には追い落としに成功した。この攻撃には内田熊若丸とともに、南朝方であった父致義も参加しており、幕府方に転じたことがわかる。一方、七月一二日には河本郷一分地頭小笠原信濃守(小笠原氏惣領で信濃守護)代桑原家兼が小笠原又太郎長氏とともに河上孫三郎入道の城を攻撃し、その軍忠状に上野頼兼の證判を得ている。ただ、九月二五日には頼兼が凶徒襲来の風聞があるとして、内田致義に高津城に籠城するよう命じており、南朝方の反撃への備えも必要であった。一〇月一九日に東部安濃郡河合郷地頭金子五郎左衛門尉が美濃郡白上郷地頭職を勲功の賞として尊氏から与えられており、黒谷城攻撃に参加していたことがわかる。
 建武五年正月には吉川辰熊丸は安芸国に戻っていたが、一〇日には石州凶徒が攻め寄せて来たのを追い返している。三月九日に幕府方が南朝方の小早河掃部助等が籠城する上山城を攻撃して追い落としたが、翌一〇日には石見国福屋城凶徒と桜井庄領家が大軍を率いて大朝新庄に打ち入った。一五日には開田庄内火村山に城を構えたため、守護代福島左衛門四郎入道率いる幕府方は二〇日までに凶徒を追い落とした。従来福屋氏は石見国内の合戦に登場せず、周布氏惣領とともに畿内での合戦に従軍していたと思われるが、これが石見国に戻ったことで南朝方は強化された。
質問の主旨から離れてしまったが、七月四日の周防国敷山城を追い落とされた大内弘直が石見国へ逃れ、幕府方の籠城する益田城を越えて南朝方の支配領域に入る直前の大山で幕府方によって討ち取られるとの想定は論者には可能性があるとは思えなかった。個々の文書を解釈するにはその背景を踏まえないと、『大日本史料』や『南北朝遺文』と同様のミスを犯すことを再確認させられた。とりあえず今回はここまでとする。

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