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2020年5月 1日 (金)

大西庄と大西庄司

 大西庄について佐伯徳哉氏「大西荘猪尾谷村東方の相論・和与からみた地頭職の内部構造」(『権門体制下の出雲と荘園制支配』、二〇一九)が言及しているが、三つの致命的な事実誤認が含まれている。第一には大西庄を上賀茂社領とする点で、関係史料には大西庄の庄園領主に関する情報は皆無で不明とせざるを得ない。第二には大西庄が現在の雲南市加茂町猪尾・東谷付近に比定されるとする点で、その一方で猪尾谷村は同庄東方に属すとする意味不明の記述もみられる。そして第三には治承・寿永の乱で大西庄司が平家方となり、その跡に伊北胤明が地頭に補任されたとする点である。
 当然のことながら、大西庄の中心部分は現在の雲南市加茂町大西であり、福田庄を間に挟んだ西側の飛地が飯尾谷村(その意味では大西庄西分)である。七七町の加茂庄と二二町の大西庄の田数からして、宇治・南加茂は加茂庄内であろう。大西は「大東」の対語であり、本来は加茂庄の地を含んでいたと思われるが、その中心部分が上賀茂神社に寄進されてしまった。その後、残りの部分が大西庄として立券されたものである。その意味では加茂庄の下司・庄司と大西庄司が同族であった可能性は残されている。
 佐伯氏は正和六年時点で大西庄西方を惣領飯沼左衛門五郎入道が、東方を庶子の飯沼親泰が支配していたとするが、大西庄内猪尾谷村の西方が現大西村部分とともに惣領分で、猪尾谷村東方(現東谷)が庶子分であった。親泰は東方一分地頭職を妹と思われる源氏女に譲ったが、氏女が佐草氏に嫁いでいたこともあり、所領の境界等をめぐり対立が生じたものである。
 雲南市大東町曹洞宗長安寺(清田102)の正和二年棟札によると、檀那源朝臣信乃四郎左衛門尉と同源氏女法名充祐により再建がなされている。文永八年の大東庄内地頭飯沼四郎の後継者が信乃四郎左衛門尉であろう。これに対して大西庄の惣領が飯沼左衛門五郎入道であった。伊北胤明は貞応元年に大西庄司跡の猪布(尾)谷地頭に補任され、その直後に福田庄が没収の対象だと主張して地頭に補任され、嘉禄二年に福田庄地頭に補任されたのが胤明の子時胤であった。なお、文永八年の湯郷と拝志郷地頭大西二郎女子は大西庄司の関係者である。承久の乱後に新たに勝部宿祢惣領となった勝部馬太夫元綱は大原郡佐世郷を本領とする一族に属し、大西庄司もその同族であろう。

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