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2020年5月18日 (月)

根拠ある人名比定を

 関係史料の翻刻ならびに新たな研究論文が発表されることは喜ばしい反面、その精度が不足しているとマイナス面も大きくなる。自身でも論文集の刊行が大事であることは承知しているが、過去に発表した論文をいまさら収録することに問題を感じている。それが最終の結論と受け取られる危険性を感じ、ブログでの最新情報の提供を優先している。過去の記事を訂正したものもあるが、参考までに過去の記事そのものも削除することなく掲載している。読み返すと、過去の記事の方が良かったと思わされることもある。論文集遅延の理由には、新たに発見された益田氏関係系図、出雲大社関係文書の全貌が公開されていない点もある。当方の研究は、この史料がなぜこうした形で残ったのが、その真偽はどうかという地点から始まるので、そうならざるをえない。
 ブログの記事で国会図書館所蔵小笠原長雄書状を紹介した報告について言及した。当然、近刊の史料集に収録されていると思ったが、収録されていなかった。史料集の編集には県教委から二名が加わっていたが、報告者は入っていなかった。とはいえ横の連携はあってしかるべきである。一方、ブログで苦言を呈した小笠原氏発給文書の問題は、当方の過去の論文の指摘を受けて、宛所が家臣横道氏から小笠原氏一族へと訂正されていた。間違い、勘違いはあるが、問題は気がついたら訂正することである。その方法としては刊行元のHPでの訂正しかない。
 大田・銀山史料集94号に「三隅兼忠避渡状」と名付けられており、愕然とした。この史料は一九九二年二月の島根県中世史研究会で「益田氏惣領制の再検討」を報告した際に、当時の益田氏惣領兼忠(兼直)のものであることを明らかにした。その報告の成文化は行っていないが、『史料集・益田兼見とその時代』でもそれに基づく解説がされている。「忠」と「直」は字体は異なるが音が同じであり、同じ人物が同音異字で記されていることはある。この場合、文書にある「忠」が正しいのはいうまでもないが、兼忠が足利直冬方に転じたことにより、「忠」から「直」に変更したことも十分ありうることである。実際に、「兼忠」が益田兼世の嫡子兼直と同一人物と気づいたのは「直」を「なお」ではなく「ただ」と読むことに気づいたからである。それは足利直冬から連想したものである。兼忠は文書の中で宅野別符が重代本領であり、且つ恩賞として拝領したと述べている。まさに建武二年二月に父兼世が益田本郷外の所領を本領として与えられたのと同じである。なぜ「三隅」兼忠としたのか理解できない。
 この文書は「益田家文書」に含まれるため益田(市)・益田氏史料集には収録されなかった。兼忠の文書を含む益田家文書巻82は未刊である。一方、関係文書である貞和七年正月 日岩田胤時(同日付で二通あり、ともに兼忠が證判)は、大田・銀山史料集には収録されていない。また、岩田胤時は貞和六年一一月一〇日軍忠状には「沙弥(三隅信性)」の證判を受けている。
 この三通の軍忠状の関係については『島根の合戦』中の「三隅城(高城)合戦」の中で述べたが、石見守護高師泰が石見国から敗退する背景を物語る重要な史料である。長野庄内得屋郷地頭胤時は益田兼忠とともに幕府方として石見国から長門国へ転戦して軍忠を積んでいたが、途中で兼忠とともに直冬方となり、高師泰の攻撃を受けていた三隅城の後巻をし、師泰軍を敗退させたのである。胤明は当初、三隅信性に軍忠状を提出したが、後になって考えるところあって、軍忠の見知人である益田兼忠にも提出した。それも、三隅城合戦のみの軍忠状と、幕府方であった時以来の軍忠状である。
 長門探題攻撃では高津氏と三隅氏が中心となったこともあって、高津氏は石見守護に補任され、三隅氏は惣領益田氏以上の待遇を得た。この点が益田氏惣領が尊氏方に転じた背景であった。今回も同様であり、遅れて反幕府方に転じた益田氏惣領と、一貫して南朝方であった三隅氏の関係も微妙であった。実際に、惣領兼忠が死亡すると、なお健在であった父兼世は幕府方への復帰を図り、兼忠の後継者となった弟とともに、反幕府方により殺害され、新たに庶子であった兼見が益田氏惣領となった。兼見と三隅氏との関係も、婚姻関係を結んだりしたが微妙であった。
 史料集90号と91号の関係も意味不明である。誰がみても二通とも左京亮軍勢催促状であるが、前者は発給者を桃井左京亮、後者は山名師氏とする。師氏について調べるとこの時点で「左京亮」でなかったことは明白であり、『萩閥』周布文書に周布氏関係者が後に記した比定を機械的に踏襲して師氏としてしまっている。左京亮が桃井氏であることは貞和六年一一月 日吉川経盛軍忠状により確認できるが、前述の修理大夫桃井直信とは花押が異なっており(90号=吉川家文書の左京亮の花押は、史料編纂所「大日本史料7編人名カードデータベース」で確認できる)同一人物とは言えない。
 127号、128号の山名時義安堵状写も『萩閥』周布の注記をそのまま踏襲しているが、時義について調べればすぐに、該当しないことがわかる。佐藤進一氏『室町幕府守護制度』の研究で「弾正少弼」の可能性が高いのは山名義理だとされ、本ブログでも検討の結果、義理であることを述べている。この外にもあるが、とりあえずはここまでとする。研究精度が十分でないことと、中世前期がわかっている人がいないのが県教委スタッフの問題点である。大学・大学院時の専門分野でなくても学べば対応は可能となる。

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