koewokiku(HPへ)

« 楯縫郡の地頭1 | トップページ | 楯縫郡の地頭3 »

2020年5月 7日 (木)

楯縫郡の地頭2

 平賀蔵人が地頭であった佐香保の領域について確認すると、日本海に面した坂(佐香)浦が含まれるのは当然であるが、その田数は一四町三反二四〇歩と、東隣の小境保の一三町九反一二〇歩と同レベルである。それを踏まえると、宍道湖に面した鹿圓寺町も佐香保内と考えなければならない。「万田庄と楯縫郡3」の記述も修正した。暦応四年に島根郡内加賀庄柏村地頭としてみえる鹿園寺治部次郎は佐香保地頭平賀氏の一族である。
 多久郷については建久五年の万田郷司の子明政に「多久太郎」とあり承久合戦治に京方で討死とある(大伴氏系図)。多久七郎跡を一族が継承することが認められたことになる。多久氏は神門系勝部宿祢から大原系に交替したのだろうか(「勝部宿祢、神門系と大原系」の記事にも追記修正)。文永八年の「中二郎入道」は建治二年六条八幡宮造営役注文に「鎌倉中」に含まれる「中民部入道跡」の人々であろうか。前述のように、頼朝が伊豆国で挙兵後、治承四年八月二八日に相模国に進軍した際に従った人々の中にみえる、中四郎惟重・中八惟平の一族であろう。さらに文治五年の奥州藤原氏攻撃の参加者に「中四郎是(惟)重」がみえる。建久四年三月一三日には鎌倉で後白河院一周忌の仏事が行われているが、その行事の奉行二〇名の中にも「中四郎惟重」がみえる。奉行の中心となったのは京下りの御家人(三善氏、中氏)と足立遠元のように早くから京都との関係(その娘が藤原光能の室)を持った御家人である。観応三年八月三日将軍義詮袖判下文により多久郷惣領職が幕府方の朝山右衛門尉義景に与えられているが、「佐々布次郎左衛門入道跡」と記されている。観応元年八月の時点で多久中太郎入道が反幕府方の中心となったため、幕府により没収され、高師泰との関係が深い佐々布氏に与えられたが、高師泰の没落により、朝山義景に与えられたものである。「多久氏と米原氏」で述べたように多久中氏は戦国期まで勢力を維持している。
 楯縫東西郷については正平六年九月一八日後村上天皇により加賀庄欠所分等地頭職とともに某に寄進されている(小野家文書)。その形式、表現からこれ以前に両郷は某(武家ではなく、寺社ないしは公家である)に寄進、ないしは与えられていた。前述のように観応元年八月に出雲国内の反幕府方が次々と旗揚げし、幕府方の守護代吉田厳覚や塩冶三河守・朝山右衛門尉義景等との間に激しい戦闘が行われたが、尊氏は弟直義との対立でしだいに劣勢となっていたこともあって十分な対応ができず、反幕府方が優位になりつつあった。同年一月二六日には足利直冬方の将軍が出雲国に発向し、反幕府方の国人の軍忠状に證判を与え、七月二五日には南朝方守護富田秀貞が勅裁が治定したとして仁多郡阿井郷を鰐淵寺に寄進している。そのような中で、反幕府方の国人を含めた方々乱妨を禁止したものであった。
 正平一八年八月三日後村上天皇綸旨により東西郷地頭職が雲樹寺に寄進されている。幕府方の朝山氏領が寄進されたものであるが、反幕府方の山名氏が幕府に帰順する時期であり、南朝方の優位は崩れつつあった。その後の雲樹寺文書に東西郷関係の文書はみあたらず、実効性はなかった。そのため、寄進状は孤峰覚明が関係した紀伊国由良寺に残された。

« 楯縫郡の地頭1 | トップページ | 楯縫郡の地頭3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 楯縫郡の地頭1 | トップページ | 楯縫郡の地頭3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ