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2020年5月27日 (水)

平頼盛について1

 平家一門でも独自の動きをしたことで知られる頼盛について整理する。
 頼盛は忠盛の後室池禅尼を母として長承二年(一一三三)に生まれた。同母兄家盛がいたが、久安五年(一一四九)三月に病死し、その結果、異母兄清盛が忠盛の後継者となったとされる。家盛の生年については『平治物語』に大治二年(一一二七)とあるが、もう少し早いのではないかとの説もある。
 頼盛は久安二年四月に皇后(得子)宮権少進となり、翌年八月に一五才で蔵人に補任され、一〇月には叙爵している。次い同六年一二月に従五位上、仁平三年に二一才で正五位下に昇進している。これに対して家盛は長承三年三月に蔵人となり、永治二年四月に右兵衛権佐に補任されている。叙爵の時期は不明だが、康治二年(一一四三)従五位下、久安三年に正五位下に進んでいる。
 家盛が頼盛と同様に一五才で蔵人に補任されたとすると保安元年(一一二〇)の生まれとなり、二一才で正五位下に叙せられたとすると大治二年の生まれとなる。家盛は忠盛の嫡子であるのに対して頼盛は異母兄清盛に対して庶子であること、家盛が永治二年七月に近衛天皇への供奉を怠ったことで(背景には待賢門院が不当な手段で出家に追い込まれたことがあったことは前に述べた)、約三週間ではあるが恐懼に処せられなければ、その昇進は更に早かったことを勘案すると、『平治物語』の大治二年説が妥当ではないか。
 頼盛の父忠盛は後鳥羽院、待賢門院、美福門院のそれぞれと緊密な関係を持ち、禅尼は崇德院の子重仁の乳母となったが、重仁が美福門院の養子となっていたこともあり、二人の女院と関係を有していた。頼盛は待賢門院の娘統子内親王給として叙爵し、美福門院との関係で従五位上と正五位下に叙せられた事に禅尼の立場が示されている。
 仁平元年一二月には禅尼が常陸国信太庄を美福門院に寄進・立券しているが、その二年前から頼盛が常陸介であった。次いで仁平四年(一一五四)八月に女院の娘姝子が内親王となると、頼盛は家司となり、二年後に女御となった際も継続していた。ところが、姝子が二条天皇の中宮として入内した平治元年二月にはその役人には起用されていない。また信太庄は女院の死後は娘である八条院の庄園となっている。とはいえ、頼盛が八条院との関係を深めたのは、八条院女房(法印覚雅の娘)を妻としてからである。その間に生まれた光盛は寛喜元年(一二二九)に五八才で死亡しており、承安二年(一一七二)の生まれである。頼盛の官職でみても、姝子立后之翌年の永暦元年(一一六〇)四月に大皇太后(多子)宮亮となっている。多子は近衛天皇に入内に皇后となったが、一六才で近衛は死亡した。その後、近衛の甥二条天皇が即位すると、再入内を求められたが、永万元年(一一六五)年には二条も死亡している。

 

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