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2020年5月 1日 (金)

福田庄と伊北氏

 能義郡福田庄は文永八年結番帳には第二番相撲頭役の項に載せられたが、当時地頭が補任されていなかった。上賀茂神社は一円地であるとして、同じ神社である杵築大社三月会の負担を第一巡目から拒否してしまい、新体制は最初から見直しを余儀なくされてしまった。
 福田庄は平家没官領・謀反人跡として、東国御家人土屋宗遠が補任されたが、一方で頼朝は寿永三年四月二四日に福田庄を含む上賀茂神社領に対して狼藉や武士による濫妨停止を命じていた。出雲国で大東庄内を含む多数の所領を得たこともあって、宗遠の養子忠光が家臣とともに出雲国に入部した。賀茂社は福田庄代官実法法師が神役を欠怠するなどの非法を行ったとして、宗遠の地頭職の停止を求め、文治二年九月には幕府がそれを認めた。
 ところが、福田庄は承久の乱の没収地とされ、貞応元年(一二二二)には上総国伊北庄を苗字の地とする御家人伊北胤明が新恩地頭に補任された。補任の経過には不分明な点もあるが、自らが新恩地頭に補任された猪布庄と同様に、福田庄が大西庄司の跡だと主張して、追加で没収注文に入れられた福田庄地頭職に補任された。川合泰氏『鎌倉幕府成立史の研究』が説いたように、占領地に乗り込んだ伊北胤明の主張を幕府が認めた形である。福田庄は結番帳で田数七七町の大荘園であるが、認められたことになる。これに対して上賀茂社側は福田庄は大西庄司跡でもなければ、大西庄司口入之地でもなく無関係だと主張してたため、翌二年七月には幕府がその主張を認め、地頭職補任を撤回した上で、胤明による福田庄への狼藉停止を命じた。その過程で幕府が福田庄の替えとして大西庄司跡である飯野庄(猪布庄とともに大西庄を構成する所領か)を与えているが、胤明はその下文をも福田庄への干渉の口実とした。
 これで問題解決とはならず、伊北氏側は今度は、福田庄が乱で処罰された上賀茂神社神主能久の所領だとして地頭補任の正当性を主張し(再審請求=越訴)、幕府が嘉禄二年(一二二五)一二月に胤明の子時胤を福田庄地頭に補任した。次いで上賀茂神社側は、福田庄が大西庄司跡であることだけでなく、承久の乱以前から胤明が福田庄地頭であったことも事実ではないとして幕府に再考を求めたが、幕府は安貞二年に時胤に地頭職安堵の下知状を与えている。
 上賀茂神社側は三度目の正直だとして、今度は福田庄は神主能久の私領ではなく代々の神領だと主張し、大西庄司跡でもないことを周辺所領の御家人の連署状を副えて訴えた。この主張が認められ、幕府は貞応元年八月一九日関東下知状で、福田庄地頭職を停止する命令を出した。二転三転したが、ようやく確定判決となった。文永八年の伊北氏領は大原郡内日伊郷(田数一一町一八〇歩)と福武村(五町一反六〇歩)であり、大西庄(二二町)の地頭は飯沼四郎子である。飯沼氏は信濃国出身の東国御家人で、その父飯沼四郎は大東庄(南分ヵ)の地頭であった。貞応元年の確定判決と同時に、伊北氏による福田庄への干渉の再発防止のため伊北氏領と飯沼氏領の交換がなされたと思われる。

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