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2020年5月16日 (土)

大内弘直の討死3

 中央での合戦と並行して地方でも両軍の戦いが続いていたが、周防国では敷山城に籠城した小笠原長光や摂津助房等の凶徒に対する幕府方の攻撃が七月四日に行われた。石見国から転戦してきた大将軍上野頼兼軍に近隣国の幕府方が合流し、凶徒の追落に成功している。これに対して石見国に残った幕府方の拠点が益田城であり、益田兼世の子二郎太郎兼行・舎弟三郎、乙吉十郎等が籠城していた。これに対して那賀郡河内城に籠城していた三隅信性を中心とする南朝方が七月二一日に益田城を攻撃している。七月七日に大内弘直が尊氏の命により討たれた益田大山(金山の大山城ヵ)は益田城と河内城の中間に位置している。そして南朝方が益田城を攻撃したのは弘直討死の二週間後であった。
 質問者の想定は、大内弘直は小笠原長光とともに敷山城に籠城していたが、幕府方の攻撃で落城したため石見国へ逃れたが、その途中で大山で幕府方に討たれ、長光は三隅城に逃れ、その下で三隅氏領となっていた波佐を任されたのではないかというものである。ただし、敷山城籠城軍と河内城籠城軍の間に連絡はあったであろうが、敷山城凶徒の中に弘直はみえない。また、落城後の長光の行方も不明である。
 弘直の兄弘幸が建武政権下での処遇を打開するため尊氏方となったのは前述の通りである。弘直も兄と行動を共にしていたのではないか。当初から南朝方となったとは考えにくい。また、益田大山の地は益田庄内の東端で、土田川の上流である。土田村は乙吉とともに益田城に籠城している乙吉氏(十郎=惣領)の所領であった。そうした点を考えると、弘直も幕府方として三隅氏等南朝方への抑えとして大山にいたと思われる。それが討たれた背景には、幕府方から南朝方への転換の動きがあり、その動きが幕府方の察知するところとなって討伐されたと考える。謀叛は未然に防いだが、これにより南朝方への抑えが弱くなったのは確かであり、七月二一日の三隅氏等による益田城攻撃はこれにより可能となったのではないか。真相は史料がなく藪の中であるが、南朝方による調略の結果、弘直の討伐と益田城攻撃が起こり、石見国内での状況が変化したのではないか。
 八月二五日には那賀郡河上城を幕府方が攻撃したところ、三隅信性等が後巻に来たので、幕府方は安濃郡内稲用郷内金剛山に籠城したところ、九月三日には三隅信性以下が金剛山を攻撃している。幕府方には大田北郷地頭土屋氏、河合郷地頭金子氏、波祢郷地頭波祢氏がいた。この状況を受け、周防国に遠征していた上野頼兼は九月九日に石州凶徒退治の軍勢催促状を周辺国に発したが、当時はなお防長での合戦に追われていた。同年末に尊氏が石見凶徒誅伐の軍勢催促状を出しているが、当時なお南朝方であった周布氏惣領兼宗に対しても発せられている。

 

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