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2020年5月15日 (金)

武蔵国成田氏について

 文永八年の能義郡坂田郷地頭成田五郎入道子と意宇郡宍道郷地頭成田四郎は両郡内地頭別府氏、能義郡利弘庄・真松郷地頭西條氏とともに、武蔵国北部に本領を持つ御家人である。成田氏系図(竜淵寺本)では成田氏の初代助広の通称は太郎で、二代目助綱は四郎である。ところが、『吾妻鏡』では「成田七郎助綱」とみえる。一方、建保五年四月五日条には「式部大夫(泰時)家人成田次郎」とみえ、一族の中に北条氏との関係を強めたものがあったことがわかる。
 今回、埼玉県幸手市吉羽博所蔵成田家系図について御教示を得、『騎西町史』中世資料編で内容を確認した。以前、『出雲塩冶誌』で別府氏について述べた際に、竜淵寺本成田家系図にはみえない「光助(満資)」が吉羽本にはみえる事を述べており、吉羽博蔵本=吉羽本であろう。県立図書館が利用可能となった時点で、『埼玉県史』『行田市史』で再確認したい。『騎西町史』には成田氏分のみ掲載されている。
 南北朝期に成田左衛門尉家資女子を母とする安保時員の孫基員が成田氏を名乗り、戦国期の成田氏に続いていく。基員は建武三年に欠所となった成田四郎太郎秀綱跡と同五郎左衛門入道跡を与えられている。前者が宍道郷、後者が坂田郷を支配していた一族であろう。成田氏一族で北条氏との関係を強めたり、南朝方となった人物の所領が幕府から欠所にされたものであろう。
 成田家系図では忠綱の孫家時と安保基員の孫家時が同一人物であろうが、竜淵寺本では前者が助綱から四代目、後者が七代目と差が大きすぎた。一方、吉羽本では助綱の子資泰(太郎兵衛尉)と忠綱の間に三代の人物が記され、両方とも七代目となり、不自然さが解消している。また竜淵寺本では助綱の弟家助が兄の養子家資(五郎左衛門尉)と同一人物とされる。これに対して、吉羽本では助綱の子成田三郎資泰は承久の乱で討死したとし、その弟四郎左衛門尉家助が乱の戦功で陸奥国内に所領を得たとする。『吾妻鏡』では承久の乱で成田五郎と成田藤次が戦功を上げ、成田兵衛尉と五郎太郎が討死したと記す。
 吉羽本では忠綱の父三郎太郎時隆の兄弟として次郎宗政と五郎家兼を記し、宗政の子子三郎宗資に「隠岐島供奉、舟上軍功」と記す。隠岐からの脱出に供奉し、舟上山で軍功を上げたとの意味で、『舟上記』の成田小三郎、『古本伯耆巻』の成田小三郎入道と対応している。教示を受けたのはこの点である。小三郎は出雲国内に所領を持つ人物ではなく、本来後醍醐の監視役として派遣されていた人物であろうか。元弘三年の和泉和田助泰申状(鎌三二八二八)では、和泉国守護代官や成田又四郎入道(信太郷地頭ヵ)、籾井彦五郎などとともに楠木城の攻撃に当たったことを述べている。吉羽本のこの部分については、竜淵寺本より事実を反映していることは確実である。一方、成田氏内部では何度か惣領が交替する事態が生じたのではないか。『吾妻鏡』と吉羽本との間にもなお、未解決の問題がある。これ以上の点は系図の全体を確認した時点で付記したい。

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