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2020年5月26日 (火)

承久の乱後の大社神主1

 乱後の神主は不明だとしたが、再度確認する。国造については、前国造の死亡により交替する。「北島家譜」に国造孝綱が元久元年(一二〇四)から二二年間在職し、その死により弟政孝が嘉禄元年(一二二五)から七年間在職している。乱後の国造はなお孝綱であったが、神主はこれとは別に領家が補任する。
 乱後の神主については、貞応三年(一二二四)六月一一日領家藤原雅隆袖判御教書がある。権検校真高から権検校の料田の支配ができず無沙汰であるとの訴えがあり、神主に対して本来の料田の沙汰ができるように命じている。次いで嘉禄元年(一二二五)四月二一日本家承明門院令旨があり、国造となった政孝が神主として大社神殿造営にあたりたいと申し出たものを認めている。ただし、補任権は領家が有しており、この令旨は建保二年(一二一四)八月 日新院(土御門院)庁下文と同様、実効性を持たなかった。
 嘉禄元年五月 日領家藤原家隆袖判下文により、出雲真高が元の如く権検校職に補任されている。前年の六月一一日以降に雅隆が七八才で死亡したことにより、異母弟で『新古今集』の編者の一人である家隆が領家となった。代始めの補任である。神主補任もなされたはずであるが、残っておらず、国造政孝以外の人物であったことは確実である。七月一九日家隆御教書によると、出雲真高の権検校再任に対しては批判する意見があった。国造政孝は、初めて権検校に補任された内蔵孝元の例をひいて、真高を補任すべきではないと主張した。当然、神主と権検校に関して複数の希望者から請文が提出され、その中で自分以外の候補を批判したものであろう。この文書は政孝が神主であった証拠にはならない。これに対して家隆は、孝元は関東下文等幕府の支持を背景に押領しようとしたので、前領家雅隆が中原孝高と出雲頼孝に命じて追い出させたもので、頼孝の後継者である真高の補任には問題がないとしている。続いて「今敵人であるため(対孝元では孝高と頼孝は領家のもとに協調していたが)、自由任せて真高を起用すべきではないの孝高の主張に対して、若亡有る次第だとして退けた上で、早く彼の濫妨を停止するよう命じている。『大社町史』の綱文では彼=政孝としているが誤りで、孝高である。父中原頼辰が秋鹿郷司の地位を没収されてはいたが、承久の乱の前の神主であった孝高が、乱後も神主の座を維持していたのである。文永八年の津田郷地頭秋鹿二郎女子は孝高の姉妹かその子であった。

 

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