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2020年5月10日 (日)

源行真申詞と近江国佐々木庄1

 『愚昧記』仁安二年冬記(東大史料編纂所所蔵)は記主三条実房の父公教が保延六年(一一四〇)から久安三年(一一四七)まで検非違使別当であった際の反故を料紙に利用している(編纂所所報45)。その裏文書に標題の史料が含まれている。近江国で源友員が殺害された事に関して、自らは無実だと主張している。さながらサスペンス劇場での弁明書である。
 行真は友員と敵対していたのは源為義の郎等である源道正だとする。友員と道正は兄弟の子(行真の甥)であるが、友員が道正の母と弟源道澄を殺害したことが発端となった。次いで道正は報復(自力救済の仇討)として友員の母と兄源友房・末高を殺害した。この事で両人は互いに敵人となった。行真ではなく、その兄弟某の妻子と兄弟を巻き込んでの問題であった。ただし、道澄は行真の娘聟でもあり、行真もまた友員殺害の動機があった。
 一方で事件の関係者は中央の公家・武士と様々な関係を結んでいた。行真の子次郎守真は左大臣源有仁(父は後三条の子輔仁親王)に祗候し、有仁領近江国佐々木庄の下司に補任されていた。鎌倉幕府で活躍する佐々木秀義の六人の子の苗字の地となった場所であるが、秀義と佐々木庄との関係には不明な点が多い。行真の住所は不明であるが、三郎宗真と四郎行正がそのもとにいた。両者は宇治入道(藤原忠実)舎人であったが、守真は佐渡守にも祗候していた。当時の佐渡守は検非違使から佐渡守、後には和泉守にも補任された平盛兼と思われる。盛兼は久安五年一二月三〇日に藤原光盛(日野実光の子)と相博して和泉守に遷任している。盛兼は忠実との関係があり、光盛はその子忠通との関係があった。盛兼の佐渡守見任が確認できるのは久安三年七月二四日以降であるが、久安元年(一一四五)一二月三〇日に重任している某も盛兼で、その初任は光盛が和泉守に補任された康治元年(一一四二)正月二三日であろう。
 佐々木氏関係系図の研究者佐々木哲氏のブログ記事「佐々木秀義」では行真を佐々木庄下司としているが、史料の誤読である。行真は近江国内の摂関家領の庄官で、忠実に仕えていた。当時の近江守は摂関家家司でもあった勧修寺流藤原為隆の子憲方(待賢門院との関係が強い。摂関家との関係を継承したのは同母弟光房であった)であった。近江国は都に近く、且つ比叡山延暦寺のお膝元であることもあって、歴博の日本庄園データベースで検索すると四〇〇以上の庄園がヒットする。殺害された友員の従者伊波源太は友員とともに襲われたが存命中で、成勝寺領伊波庄内の惣追捕使安貞のもとにいるので、彼にも聞いてほしいと行真は述べている。伊波庄は『保元物語』では、要請に応じて崇德院方に参上した為義に対して、崇德が近江国伊庭(波)庄と美濃国青柳庄の二ヶ所を与えたことで知られるが、この時点では為義との関係はなかった。また、鎌倉初期の成勝寺領を記した史料には伊波庄はみえず、保元の乱後、崇德との関係で没収されたと思われる。青柳庄はこの後、後白河妃丹後局=高階栄子が知行し、その子山科氏領となっており、これまた乱後、没収された。
 佐々木庄と為義の関係は、保延五年(一一三九)頃、為義が「佐々木」(庄はなし)に下向して、源道澄宅に到着すると、名簿を提出して家人になることを求めている。これに対し道澄は自分には本主がいるので、仮として子の一人を見参させたが、その後、為義との関係はないとのこと。佐々木庄は建久二年には延暦寺千僧供庄としてみえ、地頭佐々木定綱が延暦寺と紛争を起こし、一族が配流処分を受けているが、佐々木庄は有仁の死(久安三年=一一四七)の前後に、延暦寺に寄進されたのだろう。

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