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2020年5月 7日 (木)

楯縫郡の地頭1

 楯縫郡の文永八年の地頭は、小境保、三津庄、楯縫東郷、同西郷、玖潭社、万田本庄、同新庄が国御家人で多数を占め、佐香保、多久郷、平田保が東国御家人である。多久七郎が一の谷合戦に参陣しているが、鎌倉初期に東国御家人が地頭に補任されたことがわかる例はない。また国御家人も小境氏を除けば勝部宿祢一族である。
 後者の中で佐香保地頭平賀蔵人については不明な点が多い。平賀氏といえば承久新恩で安芸国三入庄安芸町村に入部し、戦国期まで存続した一流が有名である。信濃国平賀郷を苗字の地する源姓の一族で、建治二年六条八幡宮造営注文では鎌倉中に平賀右衛門尉とその一族松葉入道がみえる。これに対して、北条時政の娘聟で将軍をめぐる対立の中で殺害された平賀朝雅がいる。こちらも源姓であるが、前の平賀氏との関係や、朝雅殺害後の関係者の動向は不明である。
 文永八年の出東郡漆治郷地頭は下野入道(宇都宮泰綱)女子であったが、永仁年間に日吉社雑掌と対立している地頭は治部権大輔顕棟と平賀蔵人三郎入道妻平氏である。永仁四年八月に雑掌と顕棟の和与中分が成立したのを受けて、翌年正月一二日関東下知状により、妻平氏との相論もそれに準じて和与が成立したことが確認されている。
 前に述べたように宇都宮氏領から平氏(顕棟と妻平氏は一族であろう)に交替したのは、弘安八年の霜月騒動で安達泰盛とその一族が滅ぼされたためである。女子の兄弟で宇都宮氏惣領であった景綱の妻は安達泰盛の姉妹であった。後任の平顕棟は将軍久明親王の側近であった。妻平氏は夫蔵人三郎入道の死により一分地頭となったわけではない。妻平氏の子は朝資であるが、これと前述の平賀氏との関係は不明である。実際には漆治郷は幕府の管理下にあり、顕棟と妻平氏に給分として与えられていた。その後、得宗家と関係する美濃池田氏が平禅門の乱の際の恩賞として漆治郷地頭に補任されたが、その補任は乱終了の直後ではなく、しばらくしてからであった。
 余談ではあるが『出雲鰐淵寺文書』では「平氏(平顕棟)代子息朝資」という誤った注記を付けている。平氏とは平賀蔵人三郎入道妻である平氏女に他ならない。前述のように興国四年六月一日源高重願文(鰐淵寺文書)は、後醍醐天皇の隠岐脱出に重要な役割を果たした長田(後に天皇から恩賞として与えられた名和が苗字として定着したが、本人が名和を称したことはない)長年軍勢催促状とともに長田氏一族の発給文書であるが、これに何の根拠もなく「高岡高重」との誤った注記を付し、『鳥取県史』史料編にも源高重願文は収録されなかった。

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