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2020年5月19日 (火)

国衙領の二面性

 本来国衙領であっても、地頭分が寺社や公家に寄進されれば庄園となる。室町院領に寄進された地頭分がそれである。日置政高軍忠状の袖に押された師直の花押の参照元である、貞和三年三月一九日室町幕府御教書(出雲大社文書)を例にとる。
 ここでは杵築大社三月会の頭役負担について、須佐郷と生馬郷、さらには安来庄から訴えが出たことに対して、退けて負担するよう命じている。須佐郷は地頭職が尊氏によって石清水八幡宮に寄進されたもので、国衙からみれば須佐郷地頭分であるが、八幡宮からすれば須佐庄に外ならない。生馬郷は一部が守護により卒塔婆料所として寄進されたものであるが、塩冶高貞の滅亡により、生馬郷全体が某寺院の卒塔婆料所とされた可能性もある。安来庄については、下賀茂神社から頭役がまわて来る度に要求が出されていた。
 ちなみに幕府御教書は、千家国造から寄進されたものである。当時、両国造家に分立しており、文書によっては両家それぞれを宛所とし、共通のものは大社政所に保管された。この御教書も共通のものとして政所に保管されていたが、明治前期に、神主は千家のみとなったため、千家文書となったものである。本来の意味では国造家文書ではなく、大社文書である。
 ちなみに、同年八月二八日室町幕府引付頭人奉書は北島家文書であるが、なぜであろうか。隠岐国雑掌春増が山田別符年貢について再度訴えたのに対し、引付頭人上杉重能名で守護ではなく、当事者である山田別符地頭古志次郎左衛門尉(この時点の惣領)に出されている。なお年貢を未進するようなら、下地の一部を没収するとしている。この文書を残すのは古志氏ではなく、訴えた隠岐国衙側である。それが北島家に残った原因は不明であるが、当時の隠岐国衙と出雲国衙との間に関係があり、且つ両国守護京極高氏であるので、隠岐国衙領に杵築大社の料田が存在したのであろうか。古志氏の文書が北島家に流入したとの解釈は、原則としては誤りである。古志氏が自らにとって不利な文書を残すはずはないのである。万が一そうだとすれば、古志氏が過去に山田別符を支配していた証拠として収集したことになる。

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