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2020年5月 3日 (日)

鎌倉時代以降の庄園2

 最初に驚かされるのは天皇家領の冒頭にある「来海庄」の公田数が二〇町とされている点である。文永八年結番帳の二番の相撲頭と舞頭に来海庄がみえるが、写す際の錯乱を修正していかなければならない。佐伯氏は記載のある二つの一〇町をそのまま足しているが、その正しい作業は、『宍道町歴史史料集』の中で編者井上寛司氏が行っている。来海庄の田数は相撲頭の九〇町七段六〇歩と舞頭の一〇町を合計した一〇〇町七段六〇歩(ただし、一番の合計田数との間に微妙な差がある)である。来海庄の初見は安元二年であるが、本家歓喜光院が建立されたのは鳥羽院政期である。新庄が本庄から独立していないが、永享一一年の寄進状(弘長寺文書)には「来海庄新庄分」とみえる。
 次いで神門郡「林木郷(庄の誤植であろう。ただし出東郡である)」が天皇家領にされているが九条家領である。皇嘉門院、宜秋門院という九条家出身の女院の名義とされたが、これを天皇家領とする人は中世史研究者はいない。美談庄とともに南北朝期の文書には「領家分」と記されているが、これは地頭分に対するもので、九条家が両庄の本家であり、その家司等が領家であった。林木庄地頭職が出雲守護から室町院領に寄進されたため院領目録にみえるが、守護佐々木泰清の長子義重に譲られていた美談庄地頭職は室町院に寄進されていない。九条家領としてみえる末次保が、文永五年に五辻家が本家となったと記されるが誤りである。九条家家司の領家職を五辻家が相伝したものである。
 島根郡の長海本庄が上西門院領、新庄が德大寺家領とされているが、長海庄は松江市史の中世史料の追加分に明記されているように、待賢門院の御願寺円勝寺領である。崇德院の失脚により女院の娘上西門院が継承したため、その目録にみえている。その後、本庄と新庄に分かれ、新庄は德大寺家が領家で、地頭職が幕府から德大寺家に寄進されていたため、本所一円地であったが、賀茂(福田)庄と異なり、杵築大社三月会の頭役は負担していた。一方、本庄は地頭である持明院所少将基盛が領家を兼ねていたと思われる。德大寺氏と異なり持明院基盛は将軍に仕える御家人であったため、地頭としてその名が記された。
 九条家(東福寺)領法喜庄については下地中分の史料が残っている。地頭が奈子氏であることから、結番帳の春日末社であることは明白であるが、佐伯氏の表では「法吉社」としている。春日末社は田数一三町、法吉社(地頭は渋谷権守三郎)は田数二三町で、別の所領である。大原郡大西庄が上賀茂神社領でないことは前の記事で述べた。能義郡母里郷は応保元年には左近衛府領であったが、後に地頭職が室町院に寄進された。赤江郷も宝治元年には掃部寮便補保であったが、後に地頭職が六波羅探題料所とされ、それが「赤江庄」と呼ばれた。
 以上のように、佐伯氏は地頭職が寄進されたケースを正しく理解しておらず、本家と領家の違いも理解が不十分であり、その一覧表は参照してはいけないレベルのものである。なお、前にも述べたことがあるが、文永八年結番帳は大田文に基づき作成したものであり、公領については直近の検注を踏まえた田数であるが、庄園は平安末期の田数で固定化されている。

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