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2020年5月26日 (火)

承久の乱後の大社神主2

 翌嘉禄二年(一二二六)二月一七日には出雲国知行国主持明院家行が五二才で死亡している。後高倉院ならびに幕府と太いパイプを持つ家行を知行国主に起用することで、乱で大混乱となった出雲国の体制再建が期待されていた。嘉禄元年正月二七日に出雲守護佐々木義清が出雲守に起用されたのもそのためであった。知行国主はその姉妹が、長らく出雲国知行国主であった藤原朝方の二人の子に嫁いでいた二条宗輔が起用されたが、家行より一二才年上であった。また、承久の乱に孫が関わったことで、本人も一旦は恐懼に処せられており、ベテランではあるが、家行のような期待はできない人物であった。出雲守であった守護義清も安貞元年(一二二八)三月一一日には隠岐守に遷任している。家行から定輔への交代期には出雲守に留任した可能性が大きいが、定輔の関係者に交替したものであろう。ところが、その四ヶ月後の七月には定輔が六五才で病没している。次いで一〇月四日に平有時が出雲守に補任されており、平有親が知行国主になったと思われる。有親もまた後高倉院と緊密な関係を有しており、宝治二年に大社造営・遷宮が完了するまで、その地位にあった。
 以上のように、乱後間もなく、大社領領家と出雲国知行国主の関係者の死亡が相次いでいた。嘉禄二年七月には、真高が権検校に再任されるとともに、国造政孝が神主に補任された。その強みとなったのが造営旧記の所持であった。この点については、建治二年二月に領家松殿兼嗣が政孝の子国造義孝を神主に再任した際の下文に述べられ事実である。松薗斉氏と山岸常人氏はこの事実に疑問を呈しているが、ともに言いがかりレベルでしかなく、もう少し勉強して文書をきちんと読んでほしいとの助言しかない。
 という事で、承久の乱の前後を通じて神主は在庁官人中原孝高であったが、中原氏がその勢力を低下させたことと、大社造営が課題となる中で造営旧記を所持していた政孝が神主に補任された。実に国造が領家から神主に補任された最古の文書がこの嘉禄二年のものである。これ以前にも国造兼忠と国造宗孝・孝房・孝綱が神主に補任された事実はあったが、史料が失われたためか、あるいは知られたくない不都合な事実が述べられているためが、現時点では公開されていない。一方では内蔵助光・資忠父子、中原孝高が神主に補任されており、国造が神主職をその譲状に記入できる状態ではなく、現存する譲状で正しいものは弘長二年一二月三日国造義孝譲状が最古のものである。これに対して佐伯徳哉氏は今でも偽文書に基づき国造と神主の歴史を述べられ、宝治二年完成の本殿が一六丈(48m)とされることを含めて、その研究は助言するレベルに達していない。

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