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2020年5月 3日 (日)

鎌倉時代以降の庄園1

 中世庄園成立の中心時期は白河院政期後半、鳥羽院政期、後白河院政期であるが、一三世紀後半には新たなタイプの庄園が生まれてくる。一般的には「武家領・本所一円地体制」という用語が使用されるが、その前提となる下地中分がどの程度行われたかのデータがなくその実態は不明である。それよりも、地頭職が得分化し、寄進される事態が大きい。横田庄では三処左衛門後家により地頭職が六波羅探題北方の北条時輔に寄進された。文永九年に時輔が異母弟時宗により殺害されると、地頭職は幕府の管理下に置かれ、三処郷地頭職とともに時輔の母妙音に与えられた。妙音が横田庄中村八幡宮棟札で「地頭平氏三所比丘尼尼妙音」と記されている。これにより寄進者として地頭代を務めていた三処氏の権益は失われ、没落を余儀なくされた。
 妙音の死後は幕府により各種料所に宛てられたが、倒幕に成功した後醍醐は横田庄地頭職を石清水八幡宮に寄進した。ただし、建武政権が短期間で崩壊したため、その寄進はリセットされた。その後、八幡宮領としての横田庄の実態も不明となる。これに対して、文永八年には北条時宗が地頭であった須佐郷も、幕府滅亡により同様の運命を辿ったはずであるが、後醍醐がどこに寄進したかは不明である。はっきりしているのは建武政権から離脱して室町幕府を樹立した足利尊氏により、須佐郷地頭職が石清水八幡宮に寄進されたことである。横田庄と異なり、須佐郷と石清水の関係は近世にも続いている。
 守護佐々木氏による守護領得分(地頭職)の寄進も行われた。文永八年の時点では、秋鹿郡伊野郷と出東郡志々塚保が持明院=室町院に寄進されているが、その後も増加している。その所領は一四世紀初めの室町院領目録に「武家所進地頭職」として記されている。昭慶門院(実際は亀山院)領目録に庁分としてみえる「岡本庄」「温(塩)冶庄」も地頭職が寄進されて成立したもので、国衙領が庄園に変更されたものではない。
 以上の点は『竹矢町誌』でその一部を述べ、『松江市史』でまとめて述べているが、なかなか理解してもらえないのが実情である。それを佐伯徳哉氏作成の「出雲国内主要領主別庄園(鎌倉時代)」(同氏『権門体制下の出雲と荘園支配』)を例に以下で確認する。

 

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