koewokiku(HPへ)

« 出東郡の地頭 | トップページ | 杵築大社領伊志見郷 »

2020年5月12日 (火)

神門郡の地頭

 郡域の見直しの結果、出雲大社領が出東郡内となり、代わりに飯石郡内から伊秩庄が加わった。
 常松保地頭牟氏については、関係史料や情報がない。仮に「牟礼」の誤りとすれば、信濃国であるが、どうであろうか。大田別宮の出雲房は比定者不明だが、幕府関係者であろうか。塩冶郷内の一部が石清水八幡宮に寄進されて大田別宮となったが、承久の乱で塩冶郷司塩冶政光とともに没落し、幕府領となった可能性がある。ただ、勝部宿祢関係者である可能性もある。知伊社片山氏は武蔵国御家人で、丹波国和智庄地頭片山氏と同族であろう。承久新恩である可能性が高い。木津御島地頭乃木四郎子は、承久の乱までの大原系勝部宿祢の惣領惟綱の娘と佐々木高綱の次男光綱との間に生まれた高定の子である。「高定」は光綱の嫡男であったが、母方の祖父惟綱が承久の乱で没落したため、乃木氏領ではなく、朝山氏領である木津御島を継承したものであろう。常楽寺地頭佐貫氏は上野国の有力御家人である。神西新庄地頭古庄氏は相模国御家人で承久の乱で神西庄司が没落した跡に補任された。
 神西本庄地頭海瀬又太郎については情報が少ないが、天正一三年六月時点の真田氏の家臣に「海瀬文之丞」がみえ、且つ信濃国佐久郡佐久穂町に海瀬(近世は海瀬村)が確認できるので、信濃国御家人である可能性が大きい。
 朝山郷地頭朝山右衛門尉跡は、承久の乱後の勝部宿祢惣領である在国司昌綱からその子孫に譲られた所領である。本来の勝部宿祢惣領は神門系であったが、朝山郷は鎌倉初期の段階で、大原系勝部惟元が郷司となっていた。治承・寿永の乱で、大原系は神門系ほど影響を受けなかった。惟元の嫡子が前述の惟綱であったが、承久の乱後は庶子元綱が、没落した神門系資盛に代わって勝部宿祢惣領となった。伊秩庄地頭来島松助入道は飯石郡来島郷の地頭でもあった。有力在庁官人であろうが、特定の人物に比定できない。
 塩冶郷と隣接する古志郷は守護佐々木泰清が地頭であった。前塩冶郷司勝部政光は神門系で、古志郷司についても同様であろう。神門郡では明確に鎌倉初期から地頭が補任された所領は確認できなかった。

 

« 出東郡の地頭 | トップページ | 杵築大社領伊志見郷 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 出東郡の地頭 | トップページ | 杵築大社領伊志見郷 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ