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2020年5月

2020年5月27日 (水)

平頼盛について2

 父後白河院と二条天皇は政治の主導権をめぐって対立しており、頼盛の立場は天皇親政派にほかならなかった。次いで仁安元年八月に従三位公卿となった頼盛は一〇月には大宰大弐として九州に赴任するとともに、皇太后(呈子)宮権太夫に補任されている。呈子は藤原伊通の娘であるが、美福門院並びに藤原忠通の養女となり、多子に対抗する形で近衛天皇に入内し中宮となった。こちらは近衛が死亡後、皇后を経て、保元三年二月に統子内親王が同母弟後白河の皇后になったことで皇太后に移った。次いで、高倉天皇の母平滋子を皇太后とするため、仁安三年(一一六八)三月には呈子は院号宣下により九条院となった。同年一〇月に頼盛は参議に補任されたが、一一月二八日には子保盛とともに後白河院によって解官された。一年後に出仕を許され還任したが、頼盛は後白河院や平清盛の正室時子の異母妹滋子(建春門院)との間に一定の距離を置いており、そうした中で八条院に接近したとされている。
 建春門院が安元二年(一一七六)七月に死亡すると、後白河院と清盛の利害の対立が表面化する。翌年六月には院近臣による平氏打倒計画とも言われる事件が発覚し、参画した院近臣が処分されたが、その中に妻八条院女房の兄弟である法勝寺執行俊寛が含まれていたことで、頼盛の平氏内部での立場は動揺した。そして治承三年一一月には清盛が後白河院を幽閉するクーデターを起こした際には、頼盛も一旦は右衛門督を停止されている。二ヶ月後の治承四年正月には復帰を認められ、所領が没収されることもなく、四月に従二位、六月には正二位と優遇された、その最中の五月には八条院の猶子となっていた後白河院の子以仁王が挙兵した。頼盛は八条院のもとに派遣され、以仁王は鎮圧されたが、治承五年正月には高倉院が、閏二月には清盛が死亡し、後白河院の院政が復活した。平氏の総帥となった清盛の子宗盛は嫡子清宗と頼盛の娘との間の婚姻を実現したが、寿永二年七月には源義仲軍の入京が迫る中、宗盛以下の平氏一門は安徳天皇とともに都落ちしていった。頼盛は結果として後白河院と同様都に留まったが、入京した義仲により、頼盛も解官された。この後、頼盛は八条院の庇護のもと、挙兵後、鎌倉を掌握した頼朝との間に連絡をとり、後白河と対立した義仲が武力クーデータを起こすと、一条能保、持明院基家らとともに鎌倉に亡命した。
 とりあえずここまでとし、後は関係する人物の計歴を確認した上でまとめたい。

平頼盛について1

 平家一門でも独自の動きをしたことで知られる頼盛について整理する。
 頼盛は忠盛の後室池禅尼を母として長承二年(一一三三)に生まれた。同母兄家盛がいたが、久安五年(一一四九)三月に病死し、その結果、異母兄清盛が忠盛の後継者となったとされる。家盛の生年については『平治物語』に大治二年(一一二七)とあるが、もう少し早いのではないかとの説もある。
 頼盛は久安二年四月に皇后(得子)宮権少進となり、翌年八月に一五才で蔵人に補任され、一〇月には叙爵している。次い同六年一二月に従五位上、仁平三年に二一才で正五位下に昇進している。これに対して家盛は長承三年三月に蔵人となり、永治二年四月に右兵衛権佐に補任されている。叙爵の時期は不明だが、康治二年(一一四三)従五位下、久安三年に正五位下に進んでいる。
 家盛が頼盛と同様に一五才で蔵人に補任されたとすると保安元年(一一二〇)の生まれとなり、二一才で正五位下に叙せられたとすると大治二年の生まれとなる。家盛は忠盛の嫡子であるのに対して頼盛は異母兄清盛に対して庶子であること、家盛が永治二年七月に近衛天皇への供奉を怠ったことで(背景には待賢門院が不当な手段で出家に追い込まれたことがあったことは前に述べた)、約三週間ではあるが恐懼に処せられなければ、その昇進は更に早かったことを勘案すると、『平治物語』の大治二年説が妥当ではないか。
 頼盛の父忠盛は後鳥羽院、待賢門院、美福門院のそれぞれと緊密な関係を持ち、禅尼は崇德院の子重仁の乳母となったが、重仁が美福門院の養子となっていたこともあり、二人の女院と関係を有していた。頼盛は待賢門院の娘統子内親王給として叙爵し、美福門院との関係で従五位上と正五位下に叙せられた事に禅尼の立場が示されている。
 仁平元年一二月には禅尼が常陸国信太庄を美福門院に寄進・立券しているが、その二年前から頼盛が常陸介であった。次いで仁平四年(一一五四)八月に女院の娘姝子が内親王となると、頼盛は家司となり、二年後に女御となった際も継続していた。ところが、姝子が二条天皇の中宮として入内した平治元年二月にはその役人には起用されていない。また信太庄は女院の死後は娘である八条院の庄園となっている。とはいえ、頼盛が八条院との関係を深めたのは、八条院女房(法印覚雅の娘)を妻としてからである。その間に生まれた光盛は寛喜元年(一二二九)に五八才で死亡しており、承安二年(一一七二)の生まれである。頼盛の官職でみても、姝子立后之翌年の永暦元年(一一六〇)四月に大皇太后(多子)宮亮となっている。多子は近衛天皇に入内に皇后となったが、一六才で近衛は死亡した。その後、近衛の甥二条天皇が即位すると、再入内を求められたが、永万元年(一一六五)年には二条も死亡している。

 

2020年5月26日 (火)

承久の乱後の大社神主2

 翌嘉禄二年(一二二六)二月一七日には出雲国知行国主持明院家行が五二才で死亡している。後高倉院ならびに幕府と太いパイプを持つ家行を知行国主に起用することで、乱で大混乱となった出雲国の体制再建が期待されていた。嘉禄元年正月二七日に出雲守護佐々木義清が出雲守に起用されたのもそのためであった。知行国主はその姉妹が、長らく出雲国知行国主であった藤原朝方の二人の子に嫁いでいた二条宗輔が起用されたが、家行より一二才年上であった。また、承久の乱に孫が関わったことで、本人も一旦は恐懼に処せられており、ベテランではあるが、家行のような期待はできない人物であった。出雲守であった守護義清も安貞元年(一二二八)三月一一日には隠岐守に遷任している。家行から定輔への交代期には出雲守に留任した可能性が大きいが、定輔の関係者に交替したものであろう。ところが、その四ヶ月後の七月には定輔が六五才で病没している。次いで一〇月四日に平有時が出雲守に補任されており、平有親が知行国主になったと思われる。有親もまた後高倉院と緊密な関係を有しており、宝治二年に大社造営・遷宮が完了するまで、その地位にあった。
 以上のように、乱後間もなく、大社領領家と出雲国知行国主の関係者の死亡が相次いでいた。嘉禄二年七月には、真高が権検校に再任されるとともに、国造政孝が神主に補任された。その強みとなったのが造営旧記の所持であった。この点については、建治二年二月に領家松殿兼嗣が政孝の子国造義孝を神主に再任した際の下文に述べられ事実である。松薗斉氏と山岸常人氏はこの事実に疑問を呈しているが、ともに言いがかりレベルでしかなく、もう少し勉強して文書をきちんと読んでほしいとの助言しかない。
 という事で、承久の乱の前後を通じて神主は在庁官人中原孝高であったが、中原氏がその勢力を低下させたことと、大社造営が課題となる中で造営旧記を所持していた政孝が神主に補任された。実に国造が領家から神主に補任された最古の文書がこの嘉禄二年のものである。これ以前にも国造兼忠と国造宗孝・孝房・孝綱が神主に補任された事実はあったが、史料が失われたためか、あるいは知られたくない不都合な事実が述べられているためが、現時点では公開されていない。一方では内蔵助光・資忠父子、中原孝高が神主に補任されており、国造が神主職をその譲状に記入できる状態ではなく、現存する譲状で正しいものは弘長二年一二月三日国造義孝譲状が最古のものである。これに対して佐伯徳哉氏は今でも偽文書に基づき国造と神主の歴史を述べられ、宝治二年完成の本殿が一六丈(48m)とされることを含めて、その研究は助言するレベルに達していない。

承久の乱後の大社神主1

 乱後の神主は不明だとしたが、再度確認する。国造については、前国造の死亡により交替する。「北島家譜」に国造孝綱が元久元年(一二〇四)から二二年間在職し、その死により弟政孝が嘉禄元年(一二二五)から七年間在職している。乱後の国造はなお孝綱であったが、神主はこれとは別に領家が補任する。
 乱後の神主については、貞応三年(一二二四)六月一一日領家藤原雅隆袖判御教書がある。権検校真高から権検校の料田の支配ができず無沙汰であるとの訴えがあり、神主に対して本来の料田の沙汰ができるように命じている。次いで嘉禄元年(一二二五)四月二一日本家承明門院令旨があり、国造となった政孝が神主として大社神殿造営にあたりたいと申し出たものを認めている。ただし、補任権は領家が有しており、この令旨は建保二年(一二一四)八月 日新院(土御門院)庁下文と同様、実効性を持たなかった。
 嘉禄元年五月 日領家藤原家隆袖判下文により、出雲真高が元の如く権検校職に補任されている。前年の六月一一日以降に雅隆が七八才で死亡したことにより、異母弟で『新古今集』の編者の一人である家隆が領家となった。代始めの補任である。神主補任もなされたはずであるが、残っておらず、国造政孝以外の人物であったことは確実である。七月一九日家隆御教書によると、出雲真高の権検校再任に対しては批判する意見があった。国造政孝は、初めて権検校に補任された内蔵孝元の例をひいて、真高を補任すべきではないと主張した。当然、神主と権検校に関して複数の希望者から請文が提出され、その中で自分以外の候補を批判したものであろう。この文書は政孝が神主であった証拠にはならない。これに対して家隆は、孝元は関東下文等幕府の支持を背景に押領しようとしたので、前領家雅隆が中原孝高と出雲頼孝に命じて追い出させたもので、頼孝の後継者である真高の補任には問題がないとしている。続いて「今敵人であるため(対孝元では孝高と頼孝は領家のもとに協調していたが)、自由任せて真高を起用すべきではないの孝高の主張に対して、若亡有る次第だとして退けた上で、早く彼の濫妨を停止するよう命じている。『大社町史』の綱文では彼=政孝としているが誤りで、孝高である。父中原頼辰が秋鹿郷司の地位を没収されてはいたが、承久の乱の前の神主であった孝高が、乱後も神主の座を維持していたのである。文永八年の津田郷地頭秋鹿二郎女子は孝高の姉妹かその子であった。

 

2020年5月25日 (月)

正応元年一一月二一日関東下知状

 この文書(小野家文書)については何度か取り上げているが、従来の考えを棚上げにして、ゼロベースで考えてみたい。ただし、本来の文書の重要な部分が後世、この文書を入手した日御崎神社関係者によって加筆・修正されており、いくつかの留保をせざるをえない。
 修正された部分は、大社町史で示された①「小野」(前後の字より左に寄っている)、②「日置政吉」(空白の部分に加筆しており、二行に分かち書きしている他の部分より字が大きい)、③「神門郡薗・内〔林ヵ〕木〔外ヵ〕」(本来は一行であったものを無理に二行にしている)の部分、④「蘆渡」(前後の字より右に寄っている)である。最初にこの文書が加筆修正されたことを指摘した拙稿「中世前期日御崎社に関する基礎的考察」(山陰史談24,1990年)では④については言及していないが、県立図書館の影写本で再確認した。前地頭については判読が困難な部分があるが、「若槻下総七郎蔵人入道法師跡」と読むことができる。
 この文書では在京奉公の労として某「又次郎」に出雲国内の所領二ヶ所(内一ヶ所は某郷内門田三町・屋敷一所)が与えられている。同日付で小早川政景法師法名常心に備前国裳懸庄地頭職が与えられている(小早川家文書)。裳懸庄は山名左近蔵人景家法師、河辺次郎景通等跡とあり、分割して複数の人物に与えられていた。
 小早川氏は建治元年(一二七五)六条八幡宮造営役注文で在京人々の中に「小早川美作入道(茂平)跡」みえるが、政景は茂平の庶子で、安芸国都宇・竹原庄を譲られていた。山名(注文では安達氏の基盤であった上野国御家人としてみえる)、河辺氏(ただし、平頼綱方として恩賞を得ている一族のものもあった)は「景」をその名に付けており、安達泰盛与党として霜月騒動(一二八五)で没落し、その跡が政景に与えられたものであろう。
 小早川氏の例を参照すると、「小野」は「信濃」で、守護頼泰の嫡子貞清(信濃又次郎)ではないか。祖父泰清は六波羅評定衆として、六波羅探題、長井泰重に次ぐ位置にあった。貞清は父頼泰というよりも祖父泰清の後継者として正安二年(一三〇〇)閏七月五日関東御教書では「信濃次郎左衛門尉貞清」とみえ、大社造営奉行であった。与えられた所領は「林木庄」である。林木庄は地頭職が室町院に寄進されたため、正安二年頃のものである室町院領目録(八代恒治氏所蔵文書)の中にみえている。神門郡薗が後に日御崎社領となったため、林木庄の部分を神門郡薗・林木ないしは薗内外としたのだろう。鎌倉期の所領に郡名が付されることはほとんどなく、日御崎社の所在地は『出雲国風土記』の時代の出雲郡から一五世紀末までには神門郡に移り、大社領で林木庄と境を接する高浜郷・稲岡郷・武志郷も同様であったが、林木庄は出東郡内にとどまり神門郡となったことはない。
 元応二年(一三二〇)六月二五日関東下知状(小野家文書)では、文永八年の持田庄地頭土屋三郎左衛門尉忠時子の兄弟である平氏女に「前林木女」との注記がなされている。女子が文永八年の林木庄地頭であった深栖氏に嫁いでいたことと、林木庄地頭が深栖氏から若槻氏(建治注文には信濃国御家人として「若槻下総前司」がみえる)に交替していたことがわかる。観応二年(一三五一)八月に須和部(三刀屋)信恵入道が山名時氏方として石丸城に楯籠もり旗揚げした際に「若槻源蔵人一族」がみえ、「若槻孫四郎」が軍忠状の存知人となっている(諸家文書纂・三刀屋)。若槻氏を除く旗揚げの参加者は、仁多郡(仁田氏)・飯石郡(三刀屋氏)・出東郡(桑原氏)・神門郡(片山氏)であり、出雲国西部と南部の国人である。その後。文和四年には幕府方に転じた「若槻小法師丸」が本領を安堵されている。また、永和二年には若槻弥五郎清頼が訴えた出東郡漆治郷内津々志村半分に対する若槻七郎左衛門尉の押妨停止を守護京極高秀が認め、守護代隠岐入道に打ち渡すよう命じている(鰐淵寺文書)。
 以上、文書の加筆修正された部分が本来どうであったかについて検討した。日御崎社には安来庄地頭松田氏や大野庄関係文書が流入しているが、新たに守護関係文書を追加した。

2020年5月23日 (土)

液晶モニターの選択

 前回は二〇一九年始めに検討した。初の4Kモニターとして導入したDellの27インチモデル(2014年12月発売)に不満があったからである。主たるモニターにするには、目に対する優しさと見やすさとの間の丁度良い設定が難しかった。優しさを重視すると照度不足で見にくくなり、見やすさを重視すると、ブルーライトカット、フリッカーフリーの機能がないため、優しさが不足する。ということで、LGの31.5インチ・4Kモデルも検討したが、最終的にはEIZOの2730Qを選んだ。1920×1920という唯一無二の液晶(LG製)を採用したモデルで、矛盾する両方の要素を両立できるものであった。ただし、価格は高く、発売されてから一定の時間が経過しており、後継モデルが発表される可能性があるのが難点であった。入力はDPとDVIの二系統で、これにHDMIの装備が望まれるところであった。
 EIZO製品は過去に15インチブラウン管モデルと24インチ液晶モデルを購入した経験があった。前者は17インチモデル並の品質でXGA表示ができるとの触れ込みであったが、そのレベルではなかった。他社の15インチよりは良かったが‥‥。後者は16対10のWUXGAモデルで今でも利用している。その前のモデルがやはりDPとDVIのみであったが、HDMIを装備したモデルが登場したので購入したものである。ただし、2Kと4Kのモデルが相次ぎ登場したため、主役の座にあったのは短期間であった。
 今回の選定理由は、歴史の論文をPDFにして閲覧する際に見開き表示でないと、スクロールが必要で不都合であった。31.5インチモデルといっても16対9なので、縦40cm弱で、27インチの33cmと2730Qの47.5cmの中間である。そこで42.5インチを検討した。ノングレアタイプはLG製とDELL製しかない。その理由は不明だが、31.5インチモデルと同じ(LG)がやや安価(DELL)な値段となっている。問題はその重量で、二機種とも17kg台で、その箱の大きさも並大抵ではない。当然、設置する場所も必要で、かなり目から離して利用する必要がある。DELLには16対10の30インチWQXGAモデルもある。よさそうな製品だが価格はDELLの31.5インチ、42.5インチモデルより3~4割高い。
 結局、選んだのはイイヤマの31.5インチ、2Kモデルであった。今年一月に発売されたモデルながら、取り扱っている業者も少ないが、価格はこれまでみてきたモデルより6割以上安い。縦は40cm弱だが、4Kモニターのように拡大せず100%表示で利用でき、スペース効率も良く、重さも8kgである。一時的に在庫切れとあるが、注文しないと今後も悩んで無駄な時間を使うので、注文した。あー、疲れた。誰かも言っていたが、目に優しい液晶を選ぶ作業で目が疲れた。そこそこ良さそうであるし、あくまでも2730Qが主モニターで、それを支える二つのモニターの一角である。それをむかえるための部屋の片付けも必要であり、それほど急いではいない。過去のPCの廃棄も必要となるが、地元の業者が古い機種でも、且つリサイクルシールのないビジネス機でも無料で引き取るとのことであったので(部品からレアメタルを取り出すことで利益があるのだろう)、本日二度にわけて計17台を廃棄した。まだ十分使えるものもあるが、デスクトップでモニター三台をメインとして利用するようになり、それらを使う時間がなくなった。手元に残った台数(家族5人用を含め)もなお同程度あり、今後は確認した上で少しずつ廃棄したい。ほとんどの機種は中古をオークションで入手したもので、価格は新品の2割以下であった。
 ネットの閲覧は、エクスプローラー、エッジ、クロームで行っているが、クロームが断然スムーズである。今年に入って、クロームベースのエッジがダウンロードできるようになったとのことだが、自動で更新されたわけではないようである。

2020年5月22日 (金)

武蔵国成田氏について2

 寛喜三年(一二三一)時点の武蔵国内の安保信員領は安保郷内別所のみである。これに対して正中二年(一三二五)に安保信阿(行員)が嫡子又次郎基員に譲った中に成田郷地頭・郡司職箱田村、平戸村内信阿知行分が含まれていた。一方、文保二年(一三一八)一二月二四日関東下知状により、安保二郎行員法師信阿は祖母藤原氏跡である陸奥国鹿角郡内柴内村の領知を認められている。祖母は成田左衛門尉家資の娘であり、家資から譲られた所領であった。成田郷内箱田村と平戸村も祖母跡であったと思われるが、この安堵状に含まれないのは家資ではなく母=助綱娘から譲られた所領のためか。
 次いで暦応二年(一三三九)九月二〇日に安保左衛門尉基員が嫡子「くすハう」に譲ったのは成田郷内成田が加わっている。建武三年(一三三六)に軍忠により幕府から成田郷内闕所等を与えられたもので、具体的には譲状に記す恩賞地成田四郎太郎秀綱跡と同五郎左衛門入道跡、平戸小八郎跡であった。成田氏系図の内容には不明な点が多いが、吉羽本によると助綱(系図では四郎だが、『吾妻鏡』では七郎)には子資泰と家資がおり、竜淵寺本によれば、家資は助綱の弟(八郎)であったが、養子(吉羽本の四郎が正しいか)となったとする。具体的には助綱の娘を妻とした可能性が高い。その結果、助綱分成田郷の中心部分である成田村は三郎資泰(承久の乱で討死)に、養子四郎家資には箱田村と平戸村が譲られた。ただし、三村はすでに分割して譲られており、助綱の兄弟太郎広能(保元の乱で死亡)の子孫が箱田氏を、五郎助忠が成田氏、九郎某が平戸氏を苗字としている。
 文永八年(一二七一)杵築大社結番帳には能義郡坂田郷地頭として成田五郎入道が、意宇郡宍道郷地頭として成田四郎がみえた。前者は五郎助忠の子孫(孫に五郎あり)で、後者は四郎家資の子であろう。これとは別に承久の乱の勲功の賞として和泉国信太郷が成田氏に与えられているが、これは資泰の討死によるもので、その子孫が継承したと思われる。次いで、建武三年に安保基員が得た成田村内成田四郎太郎秀綱跡とは、家資流の嫡子に受け継がれたもので、五郎左衛門入道跡とは五郎助忠流に受け継がれたものであったと考えられる。
 以上をまとめると、安保基員領の成田郷箱田村内と平戸村内は陸奥国柴内村は曾祖母跡(その父家資領と母助綱女領)で、成田村内は家資嫡流と助忠流の所領であった。そして、応永二年(一三九五)二月に成田下総入道道成(基員子くすハうヵ)が、播磨国須富庄北方地頭職について祇園社との間に契約を結んでいる。須富庄は寛喜三年以来安保氏領であったが、安保氏が成田氏領を継承し、その活動の拠点を東国に移すと、近隣の領主河原氏による押領が続いていた。それを祇園社との契約により押領を防ごうとしたのである。
 応永一八年に竜淵寺を開いた家時は資泰流家綱の子で、その嫡子は五郎左衛門尉資員、嫡孫は下総守顕泰で、その子孫も下総守を継承している。その背景として考えられるのは家時と安保下総入道道成娘との結婚である。資員の誕生は応永九年で、同二七年に家督を相続している。なお、課題は残されているが、大まかな流れをトレースしてみた。
 承久の乱では助綱の子資泰流(出雲国宍道郷)と養子家資流(陸奥国石川、柴内等)、さらには助綱の兄弟助忠流(出雲国宍道郷)、某(和泉国信太郷)が恩賞を得ている。その後、幕府滅亡と南北朝動乱により家資の娘の子孫である安保氏が成田郷箱田村内、平戸村内に続いて成田村内も得た。安保氏は丹党で、成田氏領宍道郷と、それに隣接する来海庄も南北朝期に一時的にではあるが得ている。来海庄は成田氏の同族とされる別符氏領であった。正平七年(一三五二)二月一五日には成田備中権守藤原貞頼が庄内弘長寺に文書を発給している。正平一四年五月三日には南朝により成田七郎左衛門尉跡である宍道郷南方が某に兵粮料所として預けられている(益田家文書)。永享一一年(一四三九)二月二一日に安保氏の一族であろう痰氏碧彦二郎と弥三郎が来海庄新庄分弘長寺領等を寄進していることから、それを確認することができる。

2020年5月19日 (火)

国衙領の二面性

 本来国衙領であっても、地頭分が寺社や公家に寄進されれば庄園となる。室町院領に寄進された地頭分がそれである。日置政高軍忠状の袖に押された師直の花押の参照元である、貞和三年三月一九日室町幕府御教書(出雲大社文書)を例にとる。
 ここでは杵築大社三月会の頭役負担について、須佐郷と生馬郷、さらには安来庄から訴えが出たことに対して、退けて負担するよう命じている。須佐郷は地頭職が尊氏によって石清水八幡宮に寄進されたもので、国衙からみれば須佐郷地頭分であるが、八幡宮からすれば須佐庄に外ならない。生馬郷は一部が守護により卒塔婆料所として寄進されたものであるが、塩冶高貞の滅亡により、生馬郷全体が某寺院の卒塔婆料所とされた可能性もある。安来庄については、下賀茂神社から頭役がまわて来る度に要求が出されていた。
 ちなみに幕府御教書は、千家国造から寄進されたものである。当時、両国造家に分立しており、文書によっては両家それぞれを宛所とし、共通のものは大社政所に保管された。この御教書も共通のものとして政所に保管されていたが、明治前期に、神主は千家のみとなったため、千家文書となったものである。本来の意味では国造家文書ではなく、大社文書である。
 ちなみに、同年八月二八日室町幕府引付頭人奉書は北島家文書であるが、なぜであろうか。隠岐国雑掌春増が山田別符年貢について再度訴えたのに対し、引付頭人上杉重能名で守護ではなく、当事者である山田別符地頭古志次郎左衛門尉(この時点の惣領)に出されている。なお年貢を未進するようなら、下地の一部を没収するとしている。この文書を残すのは古志氏ではなく、訴えた隠岐国衙側である。それが北島家に残った原因は不明であるが、当時の隠岐国衙と出雲国衙との間に関係があり、且つ両国守護京極高氏であるので、隠岐国衙領に杵築大社の料田が存在したのであろうか。古志氏の文書が北島家に流入したとの解釈は、原則としては誤りである。古志氏が自らにとって不利な文書を残すはずはないのである。万が一そうだとすれば、古志氏が過去に山田別符を支配していた証拠として収集したことになる。

2020年5月18日 (月)

根拠ある人名比定を

 関係史料の翻刻ならびに新たな研究論文が発表されることは喜ばしい反面、その精度が不足しているとマイナス面も大きくなる。自身でも論文集の刊行が大事であることは承知しているが、過去に発表した論文をいまさら収録することに問題を感じている。それが最終の結論と受け取られる危険性を感じ、ブログでの最新情報の提供を優先している。過去の記事を訂正したものもあるが、参考までに過去の記事そのものも削除することなく掲載している。読み返すと、過去の記事の方が良かったと思わされることもある。論文集遅延の理由には、新たに発見された益田氏関係系図、出雲大社関係文書の全貌が公開されていない点もある。当方の研究は、この史料がなぜこうした形で残ったのが、その真偽はどうかという地点から始まるので、そうならざるをえない。
 ブログの記事で国会図書館所蔵小笠原長雄書状を紹介した報告について言及した。当然、近刊の史料集に収録されていると思ったが、収録されていなかった。史料集の編集には県教委から二名が加わっていたが、報告者は入っていなかった。とはいえ横の連携はあってしかるべきである。一方、ブログで苦言を呈した小笠原氏発給文書の問題は、当方の過去の論文の指摘を受けて、宛所が家臣横道氏から小笠原氏一族へと訂正されていた。間違い、勘違いはあるが、問題は気がついたら訂正することである。その方法としては刊行元のHPでの訂正しかない。
 大田・銀山史料集94号に「三隅兼忠避渡状」と名付けられており、愕然とした。この史料は一九九二年二月の島根県中世史研究会で「益田氏惣領制の再検討」を報告した際に、当時の益田氏惣領兼忠(兼直)のものであることを明らかにした。その報告の成文化は行っていないが、『史料集・益田兼見とその時代』でもそれに基づく解説がされている。「忠」と「直」は字体は異なるが音が同じであり、同じ人物が同音異字で記されていることはある。この場合、文書にある「忠」が正しいのはいうまでもないが、兼忠が足利直冬方に転じたことにより、「忠」から「直」に変更したことも十分ありうることである。実際に、「兼忠」が益田兼世の嫡子兼直と同一人物と気づいたのは「直」を「なお」ではなく「ただ」と読むことに気づいたからである。それは足利直冬から連想したものである。兼忠は文書の中で宅野別符が重代本領であり、且つ恩賞として拝領したと述べている。まさに建武二年二月に父兼世が益田本郷外の所領を本領として与えられたのと同じである。なぜ「三隅」兼忠としたのか理解できない。
 この文書は「益田家文書」に含まれるため益田(市)・益田氏史料集には収録されなかった。兼忠の文書を含む益田家文書巻82は未刊である。一方、関係文書である貞和七年正月 日岩田胤時(同日付で二通あり、ともに兼忠が證判)は、大田・銀山史料集には収録されていない。また、岩田胤時は貞和六年一一月一〇日軍忠状には「沙弥(三隅信性)」の證判を受けている。
 この三通の軍忠状の関係については『島根の合戦』中の「三隅城(高城)合戦」の中で述べたが、石見守護高師泰が石見国から敗退する背景を物語る重要な史料である。長野庄内得屋郷地頭胤時は益田兼忠とともに幕府方として石見国から長門国へ転戦して軍忠を積んでいたが、途中で兼忠とともに直冬方となり、高師泰の攻撃を受けていた三隅城の後巻をし、師泰軍を敗退させたのである。胤明は当初、三隅信性に軍忠状を提出したが、後になって考えるところあって、軍忠の見知人である益田兼忠にも提出した。それも、三隅城合戦のみの軍忠状と、幕府方であった時以来の軍忠状である。
 長門探題攻撃では高津氏と三隅氏が中心となったこともあって、高津氏は石見守護に補任され、三隅氏は惣領益田氏以上の待遇を得た。この点が益田氏惣領が尊氏方に転じた背景であった。今回も同様であり、遅れて反幕府方に転じた益田氏惣領と、一貫して南朝方であった三隅氏の関係も微妙であった。実際に、惣領兼忠が死亡すると、なお健在であった父兼世は幕府方への復帰を図り、兼忠の後継者となった弟とともに、反幕府方により殺害され、新たに庶子であった兼見が益田氏惣領となった。兼見と三隅氏との関係も、婚姻関係を結んだりしたが微妙であった。
 史料集90号と91号の関係も意味不明である。誰がみても二通とも左京亮軍勢催促状であるが、前者は発給者を桃井左京亮、後者は山名師氏とする。師氏について調べるとこの時点で「左京亮」でなかったことは明白であり、『萩閥』周布文書に周布氏関係者が後に記した比定を機械的に踏襲して師氏としてしまっている。左京亮が桃井氏であることは貞和六年一一月 日吉川経盛軍忠状により確認できるが、前述の修理大夫桃井直信とは花押が異なっており(90号=吉川家文書の左京亮の花押は、史料編纂所「大日本史料7編人名カードデータベース」で確認できる)同一人物とは言えない。
 127号、128号の山名時義安堵状写も『萩閥』周布の注記をそのまま踏襲しているが、時義について調べればすぐに、該当しないことがわかる。佐藤進一氏『室町幕府守護制度』の研究で「弾正少弼」の可能性が高いのは山名義理だとされ、本ブログでも検討の結果、義理であることを述べている。この外にもあるが、とりあえずはここまでとする。研究精度が十分でないことと、中世前期がわかっている人がいないのが県教委スタッフの問題点である。大学・大学院時の専門分野でなくても学べば対応は可能となる。

2020年5月16日 (土)

大内弘直の討死4

 翌年正月一一日に上野頼兼は、尊氏からの感状を内田熊若丸に伝えるとともに、なお国外で南朝方にとどまっている父致義跡を没収して、熊若丸に預けている。熊若丸も畿内で活動していたが、これを契機に所領である石見国俣賀村に戻ったと思われる。
 四月五日には上野頼兼が、安芸国大朝庄大塚・目河原地頭吉川辰熊丸に対して、凶徒襲来への防戦を賞するとともに、三隅城への発向を用意する用命じている(吉川家文書)。辰熊丸は当時頼兼の指揮下で長門国で活動していた。これに対して四月三〇日には足利直義軍勢催促状が出され、大朝本庄枝村・田原・竹原地頭吉川五郎次郎(経盛)に対しても、石州凶徒誅伐のため守護(『大日本史料』『南北朝遺文』は上野頼兼と注記するが、誤りであり、安芸国守護武田氏)とともに安芸国から石見国に発向することが命じられている。五月四日には石見国長野庄惣政所虫追政国に対して長門国賀年城警固が命ぜられ、政国は一族を率いて籠城したところ、石見国凶徒三隅太郎(兼知)、高津與次(長幸)らが二二日に攻めて来たとする。攻撃側の石見守が周布郷一分地頭内兼茂が賀年城攻撃の際に家子・中間が負傷した際の実検状を作成している。この時点では南朝側が石見国外で攻勢をかけていた。
 これが七月には幕府方が石見国で攻勢に転じている。四日には周防国仁保庄一分地頭平子孫太郎親重が、大将軍上野頼兼、周防国守護代厚東修理亮とともに高津氏一族が籠城する上黒谷城を攻撃し、八月二七日には追い落としに成功した。この攻撃には内田熊若丸とともに、南朝方であった父致義も参加しており、幕府方に転じたことがわかる。一方、七月一二日には河本郷一分地頭小笠原信濃守(小笠原氏惣領で信濃守護)代桑原家兼が小笠原又太郎長氏とともに河上孫三郎入道の城を攻撃し、その軍忠状に上野頼兼の證判を得ている。ただ、九月二五日には頼兼が凶徒襲来の風聞があるとして、内田致義に高津城に籠城するよう命じており、南朝方の反撃への備えも必要であった。一〇月一九日に東部安濃郡河合郷地頭金子五郎左衛門尉が美濃郡白上郷地頭職を勲功の賞として尊氏から与えられており、黒谷城攻撃に参加していたことがわかる。
 建武五年正月には吉川辰熊丸は安芸国に戻っていたが、一〇日には石州凶徒が攻め寄せて来たのを追い返している。三月九日に幕府方が南朝方の小早河掃部助等が籠城する上山城を攻撃して追い落としたが、翌一〇日には石見国福屋城凶徒と桜井庄領家が大軍を率いて大朝新庄に打ち入った。一五日には開田庄内火村山に城を構えたため、守護代福島左衛門四郎入道率いる幕府方は二〇日までに凶徒を追い落とした。従来福屋氏は石見国内の合戦に登場せず、周布氏惣領とともに畿内での合戦に従軍していたと思われるが、これが石見国に戻ったことで南朝方は強化された。
質問の主旨から離れてしまったが、七月四日の周防国敷山城を追い落とされた大内弘直が石見国へ逃れ、幕府方の籠城する益田城を越えて南朝方の支配領域に入る直前の大山で幕府方によって討ち取られるとの想定は論者には可能性があるとは思えなかった。個々の文書を解釈するにはその背景を踏まえないと、『大日本史料』や『南北朝遺文』と同様のミスを犯すことを再確認させられた。とりあえず今回はここまでとする。

大内弘直の討死3

 中央での合戦と並行して地方でも両軍の戦いが続いていたが、周防国では敷山城に籠城した小笠原長光や摂津助房等の凶徒に対する幕府方の攻撃が七月四日に行われた。石見国から転戦してきた大将軍上野頼兼軍に近隣国の幕府方が合流し、凶徒の追落に成功している。これに対して石見国に残った幕府方の拠点が益田城であり、益田兼世の子二郎太郎兼行・舎弟三郎、乙吉十郎等が籠城していた。これに対して那賀郡河内城に籠城していた三隅信性を中心とする南朝方が七月二一日に益田城を攻撃している。七月七日に大内弘直が尊氏の命により討たれた益田大山(金山の大山城ヵ)は益田城と河内城の中間に位置している。そして南朝方が益田城を攻撃したのは弘直討死の二週間後であった。
 質問者の想定は、大内弘直は小笠原長光とともに敷山城に籠城していたが、幕府方の攻撃で落城したため石見国へ逃れたが、その途中で大山で幕府方に討たれ、長光は三隅城に逃れ、その下で三隅氏領となっていた波佐を任されたのではないかというものである。ただし、敷山城籠城軍と河内城籠城軍の間に連絡はあったであろうが、敷山城凶徒の中に弘直はみえない。また、落城後の長光の行方も不明である。
 弘直の兄弘幸が建武政権下での処遇を打開するため尊氏方となったのは前述の通りである。弘直も兄と行動を共にしていたのではないか。当初から南朝方となったとは考えにくい。また、益田大山の地は益田庄内の東端で、土田川の上流である。土田村は乙吉とともに益田城に籠城している乙吉氏(十郎=惣領)の所領であった。そうした点を考えると、弘直も幕府方として三隅氏等南朝方への抑えとして大山にいたと思われる。それが討たれた背景には、幕府方から南朝方への転換の動きがあり、その動きが幕府方の察知するところとなって討伐されたと考える。謀叛は未然に防いだが、これにより南朝方への抑えが弱くなったのは確かであり、七月二一日の三隅氏等による益田城攻撃はこれにより可能となったのではないか。真相は史料がなく藪の中であるが、南朝方による調略の結果、弘直の討伐と益田城攻撃が起こり、石見国内での状況が変化したのではないか。
 八月二五日には那賀郡河上城を幕府方が攻撃したところ、三隅信性等が後巻に来たので、幕府方は安濃郡内稲用郷内金剛山に籠城したところ、九月三日には三隅信性以下が金剛山を攻撃している。幕府方には大田北郷地頭土屋氏、河合郷地頭金子氏、波祢郷地頭波祢氏がいた。この状況を受け、周防国に遠征していた上野頼兼は九月九日に石州凶徒退治の軍勢催促状を周辺国に発したが、当時はなお防長での合戦に追われていた。同年末に尊氏が石見凶徒誅伐の軍勢催促状を出しているが、当時なお南朝方であった周布氏惣領兼宗に対しても発せられている。

 

大内弘直の討死2

 足利尊氏の弟直義が新田義貞等の討伐を呼びかけた軍勢催促状を出したのは建武二年一一月二日で、一二月一一日には箱根竹ノ下の戦いで義貞を破り、上洛を開始する。後醍醐天皇も一一月二九日には尊氏・直義兄弟追討のための軍勢催促状を出している(都野家文書)が、安芸国逸見氏や周防氏、吉川氏、さらには伊勢国御家人波多野氏は尊氏方である守護武田信武に着到状を提出している。前述の「京極家譜」によると京極導誉は謀事を以て同族で出雲・隠岐守護であった塩冶高貞を御方に寝返らせたとする。守護武田が尊氏方となったので後醍醐天皇は安芸国人熊谷氏や長門国人永富氏に安芸国への発向を命じている。
 石見国では建武三年正月一九日に東部迩摩郡久利郷一分地頭赤波氏が小笠原孫五郎入道の御廻文を受けて、西部美濃郡の高津・小山城に建武政権守護代を攻撃した際の軍忠状を提出している(證判者は『山口県史』でも不明)。現在では高津道性が石見守護であったことが判明している。吉川経明は一三日に益田弥二郎兼直(忠)とともに攻撃に参加し、高津氏降伏直後に軍忠状を提出しするとともに、兼直との間に相互御証判を交わしている。兼直は益田氏惣領兼世の嫡子であり、益田氏が高津氏や三隅氏と異なり幕府方を選択したことがわかる(ただし、花押を掲載した別冊が行方不明で直接確認できず、『中世益田・益田氏関係史料集』の推定が妥当と判断したもの)。
 建武二年二月一二日後醍醐天皇綸旨により、益田・小石見両郷、津毛疋見両別府が益田兼世に対して本領安堵されている。これは当知行安堵に対するもので、過去の権利が認められたものである。四ヶ所の所領はいずれも益田氏の手を離れていたのを取り戻した形である。宛所は切り取られているが、わずかに残る墨跡から「益田次郎」宛と推定できる。何故幕府滅亡から時間がかかったのかが問題となる。直近の長門国での旧北条氏与党の反乱鎮圧での貢献によるものであろう。ただし、益田兼世は一族を代表して本領を返されたが、その後、実際に支配しているのは益田本郷のみであり、他の三ヶ所は三隅氏が実効支配した可能性が大きい。本来益田氏惣領の所領であり、この点が不満となり、兼世は三隅氏と異なり幕府方を選択したと思われる。この時期の軍忠状に兼世がみえないのは、周布氏・福屋氏惣領と同様、畿内で活動していた可能性も残る。
 建武三年四月 日丸毛兼幸軍忠状によると、前年一二月半ばの時点では凶徒を退治したいが与力人がいないため、防州の大内長弘と合流した上で、折り返し高津・小山城攻撃に参加している。竹下ノ合戦前後から一気に情勢が変化し、石見国でも幕府方の軍勢催促に応じる国人が増えたのだろう。この時期周布氏惣領御神本兼宗は南朝方として摂津国西宮や播磨国赤松城での合戦に参加している。
 赤波氏は一旦、上洛した尊氏軍に合流して畿内で戦っていたが、尊氏軍が九州へ下ると石見国に戻っている。五月一〇日には幕府方の大将軍兼石見守護に起用された上野頼兼が中心となって黒谷城攻撃が行われている。一方、長野庄内俣賀村地頭内田熊若丸は五月二五日から六月五日にかけて、九州から再上洛してきた尊氏に従い、摂津国から近江国での合戦に参加している。
 

大内弘直の討死1

 さて、いただいた課題は、建武三年七月四日に周防国敷山城に籠城していた「謀叛人小笠原長光」と七月七日に益田大山で尊氏の命により討たれた大内弘直に関するものであった。
 河本郷小笠原氏が阿波小笠原氏の出身であるとの通説に対して、それに限定するのではなく、周防国にも小笠原長光がおり、信濃小笠原氏を含めて検討すべきと井上寛司氏が説かれた論文で、長光の存在を認識した。弘直については大内氏の一族が大山で戦死した人物がいたという程度した知らなかった。両者の間に関係はあるのだろうか。
 以下に記すのは当座の説であり、後にきちんと検討したい。大内氏については一四世紀後半の弘世とその子義弘・満弘兄弟について検討したことがあるが、その前史は今後の課題であった。その際に最新の研究成果を確認するため『山口県史』通史編中世を見たが、中世前半はベテランの執筆陣のみで、新たな見解の香りすら感じられず落胆した覚えがある。以前も述べたが、『萩閥』等の既成の成果をリセットして再検討する必要がある。とりあえず大内氏については手元にあった『室町幕府守護家辞典[上]』を参照し、必要に応じて佐藤進一氏『室町幕府守護制度の研究』に依拠した。前者は一九八八年の刊行で、大内氏については利岡俊昭氏が執筆している。一九三五年(昭和一〇年)の生まれである。
 大内氏は周防国の有力在庁官人で、建長二年の閑院内裏造営役では築地八八本中の三本を「大内介」が負担している。二本の東国御家人もおり、この時点で周防国有数の国御家人であったと思われる。建治二年の六条八幡宮造営では一〇貫文を負担している。
 建治二年以降は北条氏一族が周防国守護であり、幕府滅亡時に当主弘幸は長門探題北条時直に従ったため、建武政権下では伯父鷲頭長弘が周防守護に補任された。弘幸は動乱期には尊氏に従ったが、長弘も同様で守護の地位を貞和四年までは維持した。その後、足利直冬が長門探題となった際に、上総左馬助が周防守護となった。「貞和五年の防長守護」で述べたように吉良有義に比定でき、因幡守護からの遷任であった。直冬与党であったため、年末には直冬の探題解任により、大内長弘が守護に復帰した。しかし翌年一〇月までに長弘は直冬方に転じ、幕府方の守護職を失っている。この時点で大内氏惣領弘幸の嫡子弘世も直冬方となり、これ以降、鷲頭家を圧倒する勢力を持つ。
 話を戻すと、弘直は大内氏惣領弘幸の弟である。弘幸が建武政権下での冷遇から尊氏方となったのに対して弟弘直は南朝方となったのであろうか。その討死が「建武三年七月七日」と北朝年号であることに違和感を覚えたが、これは大内氏の系図が最終的に北朝年号を採用したことによるようだ。

 

日置政高軍忠状について

 石見の方から南北朝動乱開始時の事について質問を受けて、『南北朝遺文』第一巻の関係文書を見ているが、その前に標題の点について確認する。一九九〇年に「中世日御崎社に関する基礎的考察」を発表し(山陰史談24)、日置政高関係文書の大半は後世に作成されたものであることを明らかにした。文書としての形式、同時期の他氏への発給文書との違い、證判者の花押の問題等、すべて明確な根拠を示している。問題は、本来存在した文書に基づいて後世作成された文書が存在する可能性である。
 それが建武三年正月 日日置政高軍忠状で、当該論文でも元弘三年四月 日政高軍忠状とともに、文書の真偽を保留している。ただし、元弘三年軍忠状の裏に記された花押は、一般的に説かれている千種忠顕のものとは異なっている。政高は日御崎神社検校の兄弟と思われる人物で、その所領大野庄内加治屋村は文明年間には日御崎神社領としてみえている。軍忠状の内容は具体的で、そこに記された場所や本人以外の人名は、合戦に関する他の史料と矛盾していない。政高は建武政権下で美作守護であった佐々木(富田)秀貞とともに、美作国から発行し、建武三年正月一一日に京都に入り、関東から上洛してきた尊氏軍と合流して建武政権方と戦っている。
 建武三年軍忠状の袖に證判として押されたされた花押は高師直のものと酷似しているが、この時期、高兄弟で軍忠状に證判を加えているのは師直ではなく師泰である(九州から再入京後の七月の軍忠状二通に師直が證判)。何より、軍忠状の證判はその奥に押されるのが一般的である。例外としてみえるのは、伊予国忽那氏が建武政権方に提出した建武二年一二月二五日と建武三年二月三日付軍忠状で、「洞院實世ヵ」と注記のある證判は袖に押されている。元弘三年の軍忠状のように裏に花押が押される事も極めて希なことである。元弘三年五月 日鰐淵寺住僧讃岐房頼源軍忠状の袖にも千種忠顕の花押が押されているが、これも南朝関係・非武家である。当時の作法としては文書の奥に證判のスベースを空けた上で軍忠状を作成した。
 以上の点から、二通の政高軍忠状が後に作成されたものであることは明白である。元の軍忠状を提出者の部分を書き換えて作成したが、その際に、奥ではなく袖に、そして高師泰ではなく、観応の擾乱により著名な師直の花押を押してしまったのだろう。参考にしたのは貞和三年三月一九日室町幕府御教書(出雲大社文書)で、武蔵守師直が伝達している。政高の軍忠は存在した可能性はあるが、少なくとも、文書作成時にはその軍忠状は失われていた。政高関係文書はすべて後世に作成されたものである。

2020年5月15日 (金)

武蔵国成田氏について

 文永八年の能義郡坂田郷地頭成田五郎入道子と意宇郡宍道郷地頭成田四郎は両郡内地頭別府氏、能義郡利弘庄・真松郷地頭西條氏とともに、武蔵国北部に本領を持つ御家人である。成田氏系図(竜淵寺本)では成田氏の初代助広の通称は太郎で、二代目助綱は四郎である。ところが、『吾妻鏡』では「成田七郎助綱」とみえる。一方、建保五年四月五日条には「式部大夫(泰時)家人成田次郎」とみえ、一族の中に北条氏との関係を強めたものがあったことがわかる。
 今回、埼玉県幸手市吉羽博所蔵成田家系図について御教示を得、『騎西町史』中世資料編で内容を確認した。以前、『出雲塩冶誌』で別府氏について述べた際に、竜淵寺本成田家系図にはみえない「光助(満資)」が吉羽本にはみえる事を述べており、吉羽博蔵本=吉羽本であろう。県立図書館が利用可能となった時点で、『埼玉県史』『行田市史』で再確認したい。『騎西町史』には成田氏分のみ掲載されている。
 南北朝期に成田左衛門尉家資女子を母とする安保時員の孫基員が成田氏を名乗り、戦国期の成田氏に続いていく。基員は建武三年に欠所となった成田四郎太郎秀綱跡と同五郎左衛門入道跡を与えられている。前者が宍道郷、後者が坂田郷を支配していた一族であろう。成田氏一族で北条氏との関係を強めたり、南朝方となった人物の所領が幕府から欠所にされたものであろう。
 成田家系図では忠綱の孫家時と安保基員の孫家時が同一人物であろうが、竜淵寺本では前者が助綱から四代目、後者が七代目と差が大きすぎた。一方、吉羽本では助綱の子資泰(太郎兵衛尉)と忠綱の間に三代の人物が記され、両方とも七代目となり、不自然さが解消している。また竜淵寺本では助綱の弟家助が兄の養子家資(五郎左衛門尉)と同一人物とされる。これに対して、吉羽本では助綱の子成田三郎資泰は承久の乱で討死したとし、その弟四郎左衛門尉家助が乱の戦功で陸奥国内に所領を得たとする。『吾妻鏡』では承久の乱で成田五郎と成田藤次が戦功を上げ、成田兵衛尉と五郎太郎が討死したと記す。
 吉羽本では忠綱の父三郎太郎時隆の兄弟として次郎宗政と五郎家兼を記し、宗政の子子三郎宗資に「隠岐島供奉、舟上軍功」と記す。隠岐からの脱出に供奉し、舟上山で軍功を上げたとの意味で、『舟上記』の成田小三郎、『古本伯耆巻』の成田小三郎入道と対応している。教示を受けたのはこの点である。小三郎は出雲国内に所領を持つ人物ではなく、本来後醍醐の監視役として派遣されていた人物であろうか。元弘三年の和泉和田助泰申状(鎌三二八二八)では、和泉国守護代官や成田又四郎入道(信太郷地頭ヵ)、籾井彦五郎などとともに楠木城の攻撃に当たったことを述べている。吉羽本のこの部分については、竜淵寺本より事実を反映していることは確実である。一方、成田氏内部では何度か惣領が交替する事態が生じたのではないか。『吾妻鏡』と吉羽本との間にもなお、未解決の問題がある。これ以上の点は系図の全体を確認した時点で付記したい。

2020年5月14日 (木)

杵築大社領伊志見郷

 建武三年(一三三六)に国造側が両家との裁判で作成した申状の草案の具書に安貞二年(一二二八)八月二五日関東下知状案があり、国造政孝が幕府から伊志見郷を与えられたものとされている。これに対して、従来の寄進は正殿遷宮完了時に国司から行われており、寄進の時期に疑問があるとして、宝治二年(一二四八)の正殿遷宮後になされたとの説を示した。そこでも、幕府が寄進できるのは地頭職であるとしたが、国司はどのような対応をしたのだろうか。
 文永一二年(一二七五)正月 日領家藤原兼嗣袖判下文によると、文永七年正月の本殿焼失後、神主出雲実政とその父実高が造営を行ったが、当初の方針が変更され国造義孝が所持する造営日記文書に基づくべきことになった。ところが実高・実政父子からの要請に国造が応じず、造営は一向に進まなかった。そのため、領家は国造義孝を神主に補任して造営事業を前進させることにした。これに対して、前任の出雲実高からの巻き返しがあったが、一年後の建治二年(一二七六)二月 日領家兼嗣下文により、方針転換が再確認された。その際に前例として、嘉禄の造営が進まなかった際に、義孝の親父である国造政孝が重代造営日記文書を所持しており、それを他人が帯することは出来ないことが認められた上で、政孝が神主に補任されたことが確認された。嘉禄の仮殿造営は嘉禄二年(一二二六)七月に国造政孝が神主に補任されて以降に軌道に乗っている。同時に権検校に再任されたのは出雲真高であった。前年の五月にも真高は領家下文により元の如く権検校に補任されている。これに対して、同年七月一九日領家下文には、国造政孝が権検校孝元の悪しき例を根拠に、真高の権検校補任に異論を述べている。すでにこの時点で政孝が神主に補任されていたかどうかは、この文書からは不明である。嘉禄元年四月二一日には本家承明門院が政孝を神主に補任する意思を表明しているが、あくまでも決定権は領家にあった。神主、権検校とも複数の立候補者から請文提出され、その中から領家が決定した。
 建保七年(一二一九)三月一一日に国造孝綱が国造職と大社惣検校職を舎弟政孝に去り与えているが、惣検校職は領家が補任権を持っており、この文書は後世作成された偽文書である。国造職にしても家譜では政孝が継承したのは嘉禄元年である。この年に孝綱が死亡し、その後継者をめぐる対立はあったであろうが、弟政孝が孝綱の子を抑えて国造となった。ただし、国造と神主は別である。領家が政孝を神主に補任したのは嘉禄二年七月が最初であったとみるべきである。貞応三年(一二二四)六月の時点で権検校真高を圧迫していた神主は政孝ではない。国造孝綱の可能性もあるが、国造以外であった可能性もある。
 嘉禄造営とは嘉禄三年の仮殿遷宮に至る造営事業のことであるが、それに続いて開始された正殿造営もまたスムーズには進まず、軌道にのったのは嘉禎二年(一二三六)以降であった。その前年の文暦二年九月 日領家藤原下文により出雲真高に代わって国造義孝が神主に補任されてからであった。それは義孝が父政孝から受け継いだ造営日記文書を所持していたからであった。義孝が国造となったのは寛喜三年(一二三一)で、父政孝の死によるものであった。ただし、孝綱の子等には不満が残った。
 話を戻すと、安貞二年の寄進が事実としても、幕府が寄進できたのは地頭職のみで、それに先だって国司による伊志見郷寄進が行われたはずである。建久元年の遷宮時点との違いは、承久の乱により、ほとんどの公領にも地頭(その多くは東国御家人)が補任されたいたことである。また、安貞二年の神主が出雲政孝でなかったことは確実である。安貞二年の幕府による伊志見郷地頭職寄進、それに先立つ国司による伊志見郷寄進の史料が残されなかったのは、それにより国造政孝・義孝にとって都合の悪い事実が明らかになるのを防ぐためであった。今回、北島家文書から新たに発見された文書には鎌倉幕府関係のものが含まれているようであるが、その公開を待ちたい。以上、伊志見郷寄進の問題から、政孝・義孝父子が国造並に神主に初めて補任された時期を明確にした。

2020年5月12日 (火)

神門郡の地頭

 郡域の見直しの結果、出雲大社領が出東郡内となり、代わりに飯石郡内から伊秩庄が加わった。
 常松保地頭牟氏については、関係史料や情報がない。仮に「牟礼」の誤りとすれば、信濃国であるが、どうであろうか。大田別宮の出雲房は比定者不明だが、幕府関係者であろうか。塩冶郷内の一部が石清水八幡宮に寄進されて大田別宮となったが、承久の乱で塩冶郷司塩冶政光とともに没落し、幕府領となった可能性がある。ただ、勝部宿祢関係者である可能性もある。知伊社片山氏は武蔵国御家人で、丹波国和智庄地頭片山氏と同族であろう。承久新恩である可能性が高い。木津御島地頭乃木四郎子は、承久の乱までの大原系勝部宿祢の惣領惟綱の娘と佐々木高綱の次男光綱との間に生まれた高定の子である。「高定」は光綱の嫡男であったが、母方の祖父惟綱が承久の乱で没落したため、乃木氏領ではなく、朝山氏領である木津御島を継承したものであろう。常楽寺地頭佐貫氏は上野国の有力御家人である。神西新庄地頭古庄氏は相模国御家人で承久の乱で神西庄司が没落した跡に補任された。
 神西本庄地頭海瀬又太郎については情報が少ないが、天正一三年六月時点の真田氏の家臣に「海瀬文之丞」がみえ、且つ信濃国佐久郡佐久穂町に海瀬(近世は海瀬村)が確認できるので、信濃国御家人である可能性が大きい。
 朝山郷地頭朝山右衛門尉跡は、承久の乱後の勝部宿祢惣領である在国司昌綱からその子孫に譲られた所領である。本来の勝部宿祢惣領は神門系であったが、朝山郷は鎌倉初期の段階で、大原系勝部惟元が郷司となっていた。治承・寿永の乱で、大原系は神門系ほど影響を受けなかった。惟元の嫡子が前述の惟綱であったが、承久の乱後は庶子元綱が、没落した神門系資盛に代わって勝部宿祢惣領となった。伊秩庄地頭来島松助入道は飯石郡来島郷の地頭でもあった。有力在庁官人であろうが、特定の人物に比定できない。
 塩冶郷と隣接する古志郷は守護佐々木泰清が地頭であった。前塩冶郷司勝部政光は神門系で、古志郷司についても同様であろう。神門郡では明確に鎌倉初期から地頭が補任された所領は確認できなかった。

 

出東郡の地頭

 出雲大社領には地頭が設置されず、最終的には神主職を独占した国造家が実質的な地頭となった。ただし、一四世紀半ばの半済令により、守護が大社領に関与することが可能となった。その時点の本家は応永三〇年に山科家による押領を訴えた柳原宮(永嘉門院から継承)であろうが、その立場は天皇・院領とは異なり、実権は領家が持っていた。明徳三年の京極氏による北島・千家村寄進もそのような背景でなされたものである。出東郡最北端の宇賀郷地頭西郷氏は、戦国期にその文書を三刀屋氏が入手したようで、文書そのものは伝わらないが、三刀屋文書中の文書目録にみえ、遠江国御家人であった。駿河・遠江御家人は幕府成立当初、武田(一条)氏の勢力下にあったが、武田氏が没落すると、幕府の有力御家人が惣地頭となり、本来の御家人は抑圧されていた。それが、梶原景時追討や承久の乱で当該国御家人が勲功を上げ、西国に新たな所領を得た。西郷氏の入部は承久新恩である可能性が大である。
 国富郷は承元二年一一月に杵築社権検校に補任された内蔵孝元が地頭に補任された。本来、内蔵氏が郷司であったのが地頭に変更されたものである。孝元は濫妨によりまもなく地頭を解任されたが、その後任も内蔵氏(孝幸)であったのはそのためである。文永八年の地頭狩野氏(為佐、評定衆)は承久新恩であろう。漆治郷は建久五年には庁事藤原孝政が郷司であり、文永八年の地頭宇都宮氏(下野入道女子)も承久新恩であろう。これに対して、鎌倉初期以来の地頭補任の可能性があるのは、近衛家領福頼庄である。近衛氏と平氏が結んだ(以前は平氏による押領とされた)ことで、平氏の家人が摂関家領の庄官に起用されることが多かった。そのため、平家没官領・謀反人跡として東国御家人が地頭に補任された可能性が高い。ただし、文永八年の地頭長野入道子の出自が問題となる。武蔵国の有力御家人畠山重忠の弟に長野三郎茂清がいたが、元久二年(一二〇五)六月に重忠とともに滅ぼされている。桓武平氏畠山氏は足利氏から入った養子が継承し、清和源氏となった。上野国御家人長野氏と畠山氏一族長野氏の関係は不明である。
 林木庄と美談庄は九条家領で、林木庄は一二世紀後半は皇嘉門院領で、その後、弟九条兼実領となっている。美談庄はさらに成立が遅いと思われ、林木庄とともに平氏の影響は受けていない。ともに地頭補任は承久の乱後であろう。林木庄地頭深栖氏は下総国出身であるが、建治二年の六条八幡宮造営注文では鎌倉中にみえ、有力御家人であった。永仁年間の大和国で、深栖蔵人八郎源泰長(清和源氏頼光流)の活動が確認できる。美談庄は守護佐々木泰清から長子義重に譲られたものである。志々塚保地頭が「持明院殿」とあるのは守護泰清から室町院(持明院殿)に寄進されたためである。得宗北条時宗領である神立は田数は未記載だが、出東郡から神門郡への渡る要地であった。氷室庄地頭信濃僧正(道禅)は幕府の法会に導師としてみえ、幕府領を与えられていたものであろう。元弘三年四月一一日に後醍醐天皇が国富庄と氷室庄を大社に寄進しているが、没収した地頭職である(ただし、政権崩壊で無効となる)。吉成保地頭土淵氏と宇屋新宮地頭泉氏は武蔵国、波根保地頭西牧氏は信濃国御家人で、建部郷地頭桑原氏は信濃ないしは武蔵国御家人であり、いずれも承久の乱以降の地頭であろう。唯一、所領名を名乗る福富太郎入道は国御家人であろう。
 出東郡は一部を除き、鎌倉初期に東国御家人が地頭に補任されることはなかったが、承久の乱により出雲大社領を除けばほとんどが東国家人領となった。なお、阿吾社は文永八年時点では三番相撲頭に編成されており、杵築大社領ではない。

出東郡と神門郡

 「伊予佐々木家文書」が国会図書館に所蔵されており、同図書館デジタルで閲覧することができる。『戦国大名尼子氏の伝えた古文書-佐々木家文書』で画像と翻刻文が掲載されているが、なぜか(理由の説明なし、この点を含め改訂再発行すべきレベルのもの)、明徳三年(貼紙による)七月五日佐々木(京極)高詮宛状のみ写真が未掲載である。始めて与えたものなので文書名の「安堵状」は誤りである。出雲守護山名満幸ないしはその与党の所領が没収されて高詮に与えられたものを、弟六郎左衛門尉(高久)に分与したものである。
 問題は『京極家譜』でこの文書とその関連文書について以下のように述べていることである。
「明徳三〈壬申〉六月十一日高詮以出雲国出雲郡之内千巻北別所加高久、同年七月五日同国大原郡之内近松庄亦被譲之訖」
これに先立ち六月一一日には「出雲郡之内」千巻北別所(出雲市斐川町今在家の北半分)を分与している。後者も原文は「当国大原郡内近松庄」とあり、それが反映されている。「当国」とあるからには、この文書が出雲国に下向していた際に発給されたことを示している。前者も「当国」に続いて郡名が記されていたのは確実である。
 この三日前に京極高詮は「当国出東郡」千家・北島事を杵築大社に寄進しており(出雲大社文書)、前者の文言は次のようであったと思われる。
「当国出東郡内千巻北別所事、計申候、可有知行候也、恐々謹言」。以前の記事で出雲大社文書と伊予佐々木家文書の前後を勘違いして、明徳三年に出雲郡から出東郡への変更がなされたと記したが誤りである。そう書いたことも忘却していたが、たまたま検索して該当記事をみて、改めて確認したところである。
 出雲郡から出東郡への変更は院政期に、古代の出雲郡出雲郷に代わって。国衙に隣接する地域が出雲郷となったため、「出雲郡」「出雲郷」の両方の名称を変更したものである。古代の出雲郷は、中世では出西郷と大田郷(神立、北島、千家、求院)に再編成された。問題は、出東郡の範囲である。戦国期には出雲大社と大社領が、その時点の斐伊川の東岸・西岸に関係なく神門郡に組み入れられた。それまで北島の北側から北東への流路が東流路の中心であったのが、北島から北側への流路が中心となった。それには、西流路の縮小も伴ったと思われる。以上の事態が生じたのは一五世紀後半であろう。それに続く大きな流路変更が、十七世紀初頭の西流路の消滅であった。本来、斐伊川の本流であった西流路は、北島の対岸地点から朝山郷(中野・入南)、塩冶郷(荻原・栃島・高岡・荒木)、常松保と出雲大社領(武志・稲岡・高浜・杵築)の間を流れていたと思われる。
 院政期以前は、斐伊川東岸南部で小規模洪水が生じて遊水池の役割を果たしていたが、出雲大社領の成立とともに、洪水対策が進むと、東岸の中部・北部までの流水量が増加し、洪水が発生するようになった。また降雨量が多い場合は西岸でも洪水が発生した。それとは別に、北山山系での豪雨により、土石流が発生し、従来の河川が埋まる事態も起きた。西流路が埋まって消滅したのはそのためである。これにより西岸での洪水は、局地的なものを除けば、斐伊川本流沿いの地域が中心となった。
 話を戻すと、以前に両郡の境界を考えた際は、斐伊川西流路が北山山地に沿って流れていたとの想定から、武志郷、稲岡郷を神門郡内と考えたが、それを出東郡に修正する。一五世紀半ばまでは、斐伊川沿いの大社領で神門郡に属していたのは石塚のみで、その他はすべて出東郡であった。

 

2020年5月11日 (月)

出雲・隠岐守護再考

 何度かこの問題について述べているが、もう一度確認する。
 課題としてあるのは、守護職の譲与・相続は可能だったのかということである。佐々木隠岐入道義清は延応元年(一二三九)一二月二九日時点では生存していた。その子佐々木信濃判官泰清の死亡は、弘安五年(一二八二)六月頃である(同六年六月二九日頼泰書状で一周忌について言及)。地頭職については生前から譲状の作成は可能だが、それを幕府が安堵するのは当主の死亡時であった。守護職についても形式的には現守護の死亡により交替すると考えられる。
 嘉禎四年(一二三八)初守護リストで出雲・隠岐は「隠岐次郎入道」と記されていたのを「隠岐次郎左衛門尉」の誤りとしたが、「隠岐五郎入道」の誤りに訂正する。形式上の守護はなお健在であった義清で、実際にはその長子政義が出雲守護、次子泰清が隠岐守護であった。伊藤邦彦氏が守護代と区別して使用した代行、名代の例となろうか(守護関連史料で守護代を守護、守護人と呼ぶ史料は少なからず有る)。次いで義清の死により、両人が形式的上でも守護となり、仁治四年(一二四三)の政義の無断出家により、泰清がその所領(地頭職)と出雲守護職を与えられた。
 弘安五年の泰清の死以前に、出雲守護は子三郎頼泰、隠岐守護は七郎宗泰が代行していた。次いで泰清の死により、嫡子次郎時清が形式上の出雲・隠岐守護となった。弘安七年九月七日に頼泰が北条時輔とその子息の経廻について、鰐淵寺衆徒へ「執達如件」形式の文書で伝えているのは代行していたためである。その後、嘉元元年五月に時清が嘉元の乱で討死した際、ないしはその子宗清が正和四年(一三一五)に死亡した際に頼泰の子貞清が正式に出雲守護となった。宗清の死亡時、嫡子清高は二一歳であった。
 正和三年三月八日に貞清が祖父泰清と父頼泰の奉賀を継承し、銀塔一基を鰐淵寺三重塔に安置している。これに先立ち乾元二年(一三〇三)四月一一日には鰐淵寺北院三重塔と南院薬師堂に修理料田一町ずつを寄進している。父頼泰の死亡をうけてのものであろう。その時期は貞清が幕府から大社造営奉行の沙汰を命じられている正安二年(一三〇〇)閏七月五日の少し前であろう。隠岐守護は時清の子宗清、孫清高に継承され、なお健在であった高岡宗泰(沙弥覚念)が実務を代行していた。嘉暦元年(一三二六)に貞清と覚念が相次いで死亡した。出雲守護は貞清の子高貞が継承し、隠岐守護代行は覚念の養子宗義が継承したが、宗義は四年後の元徳二年に死亡し、子師宗に交替した。そうした中、元弘の変により後醍醐が退位し、元弘二年(一三三二)には隠岐に配流された際には正規の隠岐守護清高がその護送にあたった。

2020年5月10日 (日)

最近の記事の補足

 肥前大島氏と来島文書に関して、川添昭二氏『中世九州地域史料の研究』を古本(新品同様)で入手した。念のため確認すると氏は昭和二年(一九二七)の生まれであった。師事した竹内理三氏は二〇歳年長であった。竹内氏は史料編纂所勤務中に『奈良遺文』を刊行を終え、『平安遺文』の刊行が始まった翌一九四八年に九州大学に赴任している。愛知県出身で九州大学へ赴任した中世史家では服部英雄氏がいる。古代史の坂上康俊氏は東大助手から九州大学に赴任しているが、宮崎県の出身であるようだ。同級生では隼人の研究で知られる永山修一氏がいた。彼も宮崎県の出身であったはず。
 竹内氏は一一年間九大に在籍し、編纂所に戻り、所長となった後に定年退官すると、早稲田大学で一〇年間在籍している。九大時代に指導した瀬野精一郎氏が早大での指導を継承し、その後は早大OBが指導にあたっている。川添氏は九大で指導にあたり、それが現在の佐伯弘次氏につながるのであろうか。ただし、竹内氏は全国を視野に入れた研究者であるが、その後継者は研究対象が九州に限定されている。これは広大でも同様だが、理想的には全国的視野の研究者と地元中心の研究者が交互に教授となれば、現在以上に活性化するだろう。それは、まさに現在の日本が抱えている問題、限界でもある。なお、当方が竹内氏の名前を知ったのは高校時代の日本史教科書(自由書房、その後、東京書籍が継承)の執筆者としてであった。
 話を戻すと、川添氏「来島文書と肥前大島氏」をざっと読んだが、少なくとも肥前大島氏と近江国香庄を相伝した大江氏は直接的にはつながらないようである。前者には平安末期に肥前守大江国通がいたが、後者の大江通国が受領となったのは伊豆守のみである。これは志岐氏についても同様だが、九州出身で九州以外の国の地頭職を有した例があるのだろうか。九州に残る大田文にみえる地頭から検討していかなければならない。とりあえず、田頼郷地頭大島氏と大竹寺地頭志貴氏が肥前国御家人大島氏、志岐氏の一族であるかは、可能性がゼロではないというレベルであり、なお肉付けが必要である。
 文書を残した来島氏当主の弟が、大隈重信へのテロを行った来島恒喜であることを知り、驚いたが、一方ではどのような経歴をたどった人物かも、機会をみて確認したい。京極家譜の問題を述べようとしたが、佐々木秀義の実像が全く不明であることに呆然とし、とりあえず、「源行真申詞」からわかることをまとめるのが精一杯であった。秀義の長子定綱と宇都宮氏の関係も、宇都宮氏研究から確認していく必要がある。系譜資料は貴重な情報伝えてくれる反面、扱いが大変難しいことを痛感している。秀義の子の三人(定綱、盛綱、高綱)がその名に「綱」を付けている背景は何であろうか。佐々木哲氏の秀義=源資長説では何の説明にもならない。

源行真申詞と近江国佐々木庄2

 有仁は藤原経実の娘懿子を養女とし、後白河妃とした。懿子の母は後白河の母待賢門院の同母姉であったが、二条天皇を出産した一週間後に病没した(康治二年)。有仁領が二条天皇に継承された可能性はあるが、二条の血筋もその子六条で絶えている。また、有仁の祖母源基子の同母弟行宗は輔仁と有仁に仕え、その養女兵衛佐局が崇德天皇に仕えて重仁親王を産んだように、有仁と崇德院との間にも関係があった。行宗が康治二年一二月に没すると、兵衛佐局は藤原教長の養女となった。教長は公卿で崇德院のもとに参じた数少ない人物で、配流後、京都に戻ると、崇德院の除霊のための施設の設置を働きかけている。
 以上、源行真申詞をみたが、佐々木秀義と佐々木庄をつなぐ明証は確認できなかった。秀義の長子定綱が為義の娘を母として康治元年に誕生しており、この時点で秀義と為義との間に関係があったことは確認できる。佐々木哲氏は秀義は源有賢の子資長と同一人物だとするが、それが何故「秀義」と改名したのか、説明できない課題が山積しており、その説に同意する環境は整っていない。なお、藤原憲方以降の近江守は、天養元年正月に藤原敦光が補任されたが、その出家により半年ほどで交替している。久安三年三月一三日に「前近江守実清」がみえる(仙洞御移徙部類記)。閑院流藤原公信の子実清で、久安四年には右馬権頭に補任され、崇德院御給で正五位下に叙され、仁平四年には従四位下に進んでいる。同年八月に藤原頼長の子兼長が右大将に補任され、慶賀のため二一日に崇德院のもとを訪ねた際は別当右馬権頭実清が応対しており、崇德院庁の中心メンバーであった。保元の乱では崇德方となり、乱後処罰されている。
 実清の後任として近江守に補任された人物は不明だが、久安五年三月一八日に源憲俊が補任された。これもまもなく出家したため七月八日には源成雅に交替している。憲俊は太宰大弐からの遷任であろうが、忠実の家司であり、大宰府が忠実の知行国であった。その知行国が近江に移ったものである。成雅も忠実・頼長父子の家司で、忠実の知行国安芸国からの遷任であった。保元の乱では頼長方となり、処罰された中に「左近中将成雅」がみえる。仁平元年二月二日には院近臣である勧修寺流藤原朝隆が知行国主となり、その嫡子朝方が近江守に補任されている。以上のように、憲方と実清は待賢門院・崇德院の関係者であり、憲俊と成雅は忠実の関係者であった。

源行真申詞と近江国佐々木庄1

 『愚昧記』仁安二年冬記(東大史料編纂所所蔵)は記主三条実房の父公教が保延六年(一一四〇)から久安三年(一一四七)まで検非違使別当であった際の反故を料紙に利用している(編纂所所報45)。その裏文書に標題の史料が含まれている。近江国で源友員が殺害された事に関して、自らは無実だと主張している。さながらサスペンス劇場での弁明書である。
 行真は友員と敵対していたのは源為義の郎等である源道正だとする。友員と道正は兄弟の子(行真の甥)であるが、友員が道正の母と弟源道澄を殺害したことが発端となった。次いで道正は報復(自力救済の仇討)として友員の母と兄源友房・末高を殺害した。この事で両人は互いに敵人となった。行真ではなく、その兄弟某の妻子と兄弟を巻き込んでの問題であった。ただし、道澄は行真の娘聟でもあり、行真もまた友員殺害の動機があった。
 一方で事件の関係者は中央の公家・武士と様々な関係を結んでいた。行真の子次郎守真は左大臣源有仁(父は後三条の子輔仁親王)に祗候し、有仁領近江国佐々木庄の下司に補任されていた。鎌倉幕府で活躍する佐々木秀義の六人の子の苗字の地となった場所であるが、秀義と佐々木庄との関係には不明な点が多い。行真の住所は不明であるが、三郎宗真と四郎行正がそのもとにいた。両者は宇治入道(藤原忠実)舎人であったが、守真は佐渡守にも祗候していた。当時の佐渡守は検非違使から佐渡守、後には和泉守にも補任された平盛兼と思われる。盛兼は久安五年一二月三〇日に藤原光盛(日野実光の子)と相博して和泉守に遷任している。盛兼は忠実との関係があり、光盛はその子忠通との関係があった。盛兼の佐渡守見任が確認できるのは久安三年七月二四日以降であるが、久安元年(一一四五)一二月三〇日に重任している某も盛兼で、その初任は光盛が和泉守に補任された康治元年(一一四二)正月二三日であろう。
 佐々木氏関係系図の研究者佐々木哲氏のブログ記事「佐々木秀義」では行真を佐々木庄下司としているが、史料の誤読である。行真は近江国内の摂関家領の庄官で、忠実に仕えていた。当時の近江守は摂関家家司でもあった勧修寺流藤原為隆の子憲方(待賢門院との関係が強い。摂関家との関係を継承したのは同母弟光房であった)であった。近江国は都に近く、且つ比叡山延暦寺のお膝元であることもあって、歴博の日本庄園データベースで検索すると四〇〇以上の庄園がヒットする。殺害された友員の従者伊波源太は友員とともに襲われたが存命中で、成勝寺領伊波庄内の惣追捕使安貞のもとにいるので、彼にも聞いてほしいと行真は述べている。伊波庄は『保元物語』では、要請に応じて崇德院方に参上した為義に対して、崇德が近江国伊庭(波)庄と美濃国青柳庄の二ヶ所を与えたことで知られるが、この時点では為義との関係はなかった。また、鎌倉初期の成勝寺領を記した史料には伊波庄はみえず、保元の乱後、崇德との関係で没収されたと思われる。青柳庄はこの後、後白河妃丹後局=高階栄子が知行し、その子山科氏領となっており、これまた乱後、没収された。
 佐々木庄と為義の関係は、保延五年(一一三九)頃、為義が「佐々木」(庄はなし)に下向して、源道澄宅に到着すると、名簿を提出して家人になることを求めている。これに対し道澄は自分には本主がいるので、仮として子の一人を見参させたが、その後、為義との関係はないとのこと。佐々木庄は建久二年には延暦寺千僧供庄としてみえ、地頭佐々木定綱が延暦寺と紛争を起こし、一族が配流処分を受けているが、佐々木庄は有仁の死(久安三年=一一四七)の前後に、延暦寺に寄進されたのだろう。

2020年5月 7日 (木)

楯縫郡の地頭3

 朝山氏惣領が一四世紀末に活動の拠点を畿内に移した後の状況は隣接する三津庄地頭職とともに不明であるが、文安六年二月九日朝山禅朝譲状には不知行地を含めて記されているが、三津庄はあっても東西郷はみえず、これ以前に庶子家領となっていたと思われる。
 文永八年の玖潭社地頭玖潭四郎は大伴氏系図に在国司朝山昌綱の従兄弟としてみえる勝部宗綱である。観応元年八月の合戦では幕府方として玖潭彦四郎がみえる。その後、文明七年一二月一四日には塩冶政通が知行地である久多見保を朝山八田肥前守が質券の地として数年間押領していることを訴えている。この久多見保は玖潭社と同一所領と思われるが、塩冶氏が得たのはその地頭職である可能性が大きい。これに対して玖潭氏が属する勝部宿祢一族の惣領朝山氏の一族が干渉を加えていることになる。
 補足であるが、鎌倉期以降の佐陀神主は大原系であり大伴氏系図に載っているが、それ以前は神門系、仁多系いずれの可能性もある。承久の乱までは神門系の勝部資盛(意宇郡出雲郷司)が勝部宿祢一族の惣領であった。大伴氏系図には西長田郷地頭しかみえないが、それは長田郷が本来は神門系の所領で、文永八年の東長田郷と枕木保地頭長田蔵人は神門系であろう。佐陀神主も平安末期までは神門系とするのが妥当であるが、一方で、近世の地誌『雲陽誌』には永正17年(1520)に名分村の恵美城主「仁田右馬助」を佐陀神主が滅ぼしたと記される点が気にかかる。仁多系の惣領仁多氏の活動が確認できるのは観応二年八月二二日に須和部三郎入道が、幕府を離脱した山名氏と結ぶために三刀屋郷石丸城で旗揚げした際の参加者に「仁田彦四郎」がみえるのが最後である。佐陀神主が本来、仁多系であったがために、恵美城を仁田右馬助が拠点とできた可能性がある。
   平田保地頭多胡氏については斐伊川問題の記事で述べたので省略する。万田本庄と新庄の文永八年の地頭は大伴氏系図にみえる万田二郎太郎家光と万田七郎元光である。家光の父明政については多久郷で述べた。元光は明政の兄弟である。万田庄の立券時の問題についても前述の通りである。それが弘安四年五月二三日に六波羅探題北条時国が万田新庄内大社神田一町を杵築大社社家に寄進している。この文書は『鎌倉遺文』で「左近将監直朝書下」と誤読され、『大社町史』史料編でも踏襲された。これに対して三一年前に『竹矢郷土誌』中世の項で、これが六波羅探題時国の寄進状であることを明らかにした。ところが「島根県中世史史料集成・史料目録-鎌倉遺文-」(島根県古代文化センター) ではいぜんとして「直朝書下」とされたままである。南北朝遺文目録でもそうだが、明白な偽文書や年代比定の誤りも放置され、「山名高義寄進状」「高岡高重願書」もそのままである。「信頼性・正確性は利用者の責任」としているが、そうならばこの目録は不要である。専門家には不要で、それ以外には利用不可能なものなど存在意義がない。適宜更新し、最新のものでなければならない。

 

楯縫郡の地頭2

 平賀蔵人が地頭であった佐香保の領域について確認すると、日本海に面した坂(佐香)浦が含まれるのは当然であるが、その田数は一四町三反二四〇歩と、東隣の小境保の一三町九反一二〇歩と同レベルである。それを踏まえると、宍道湖に面した鹿圓寺町も佐香保内と考えなければならない。「万田庄と楯縫郡3」の記述も修正した。暦応四年に島根郡内加賀庄柏村地頭としてみえる鹿園寺治部次郎は佐香保地頭平賀氏の一族である。
 多久郷については建久五年の万田郷司の子明政に「多久太郎」とあり承久合戦治に京方で討死とある(大伴氏系図)。多久七郎跡を一族が継承することが認められたことになる。多久氏は神門系勝部宿祢から大原系に交替したのだろうか(「勝部宿祢、神門系と大原系」の記事にも追記修正)。文永八年の「中二郎入道」は建治二年六条八幡宮造営役注文に「鎌倉中」に含まれる「中民部入道跡」の人々であろうか。前述のように、頼朝が伊豆国で挙兵後、治承四年八月二八日に相模国に進軍した際に従った人々の中にみえる、中四郎惟重・中八惟平の一族であろう。さらに文治五年の奥州藤原氏攻撃の参加者に「中四郎是(惟)重」がみえる。建久四年三月一三日には鎌倉で後白河院一周忌の仏事が行われているが、その行事の奉行二〇名の中にも「中四郎惟重」がみえる。奉行の中心となったのは京下りの御家人(三善氏、中氏)と足立遠元のように早くから京都との関係(その娘が藤原光能の室)を持った御家人である。観応三年八月三日将軍義詮袖判下文により多久郷惣領職が幕府方の朝山右衛門尉義景に与えられているが、「佐々布次郎左衛門入道跡」と記されている。観応元年八月の時点で多久中太郎入道が反幕府方の中心となったため、幕府により没収され、高師泰との関係が深い佐々布氏に与えられたが、高師泰の没落により、朝山義景に与えられたものである。「多久氏と米原氏」で述べたように多久中氏は戦国期まで勢力を維持している。
 楯縫東西郷については正平六年九月一八日後村上天皇により加賀庄欠所分等地頭職とともに某に寄進されている(小野家文書)。その形式、表現からこれ以前に両郷は某(武家ではなく、寺社ないしは公家である)に寄進、ないしは与えられていた。前述のように観応元年八月に出雲国内の反幕府方が次々と旗揚げし、幕府方の守護代吉田厳覚や塩冶三河守・朝山右衛門尉義景等との間に激しい戦闘が行われたが、尊氏は弟直義との対立でしだいに劣勢となっていたこともあって十分な対応ができず、反幕府方が優位になりつつあった。同年一月二六日には足利直冬方の将軍が出雲国に発向し、反幕府方の国人の軍忠状に證判を与え、七月二五日には南朝方守護富田秀貞が勅裁が治定したとして仁多郡阿井郷を鰐淵寺に寄進している。そのような中で、反幕府方の国人を含めた方々乱妨を禁止したものであった。
 正平一八年八月三日後村上天皇綸旨により東西郷地頭職が雲樹寺に寄進されている。幕府方の朝山氏領が寄進されたものであるが、反幕府方の山名氏が幕府に帰順する時期であり、南朝方の優位は崩れつつあった。その後の雲樹寺文書に東西郷関係の文書はみあたらず、実効性はなかった。そのため、寄進状は孤峰覚明が関係した紀伊国由良寺に残された。

楯縫郡の地頭1

 楯縫郡の文永八年の地頭は、小境保、三津庄、楯縫東郷、同西郷、玖潭社、万田本庄、同新庄が国御家人で多数を占め、佐香保、多久郷、平田保が東国御家人である。多久七郎が一の谷合戦に参陣しているが、鎌倉初期に東国御家人が地頭に補任されたことがわかる例はない。また国御家人も小境氏を除けば勝部宿祢一族である。
 後者の中で佐香保地頭平賀蔵人については不明な点が多い。平賀氏といえば承久新恩で安芸国三入庄安芸町村に入部し、戦国期まで存続した一流が有名である。信濃国平賀郷を苗字の地する源姓の一族で、建治二年六条八幡宮造営注文では鎌倉中に平賀右衛門尉とその一族松葉入道がみえる。これに対して、北条時政の娘聟で将軍をめぐる対立の中で殺害された平賀朝雅がいる。こちらも源姓であるが、前の平賀氏との関係や、朝雅殺害後の関係者の動向は不明である。
 文永八年の出東郡漆治郷地頭は下野入道(宇都宮泰綱)女子であったが、永仁年間に日吉社雑掌と対立している地頭は治部権大輔顕棟と平賀蔵人三郎入道妻平氏である。永仁四年八月に雑掌と顕棟の和与中分が成立したのを受けて、翌年正月一二日関東下知状により、妻平氏との相論もそれに準じて和与が成立したことが確認されている。
 前に述べたように宇都宮氏領から平氏(顕棟と妻平氏は一族であろう)に交替したのは、弘安八年の霜月騒動で安達泰盛とその一族が滅ぼされたためである。女子の兄弟で宇都宮氏惣領であった景綱の妻は安達泰盛の姉妹であった。後任の平顕棟は将軍久明親王の側近であった。妻平氏は夫蔵人三郎入道の死により一分地頭となったわけではない。妻平氏の子は朝資であるが、これと前述の平賀氏との関係は不明である。実際には漆治郷は幕府の管理下にあり、顕棟と妻平氏に給分として与えられていた。その後、得宗家と関係する美濃池田氏が平禅門の乱の際の恩賞として漆治郷地頭に補任されたが、その補任は乱終了の直後ではなく、しばらくしてからであった。
 余談ではあるが『出雲鰐淵寺文書』では「平氏(平顕棟)代子息朝資」という誤った注記を付けている。平氏とは平賀蔵人三郎入道妻である平氏女に他ならない。前述のように興国四年六月一日源高重願文(鰐淵寺文書)は、後醍醐天皇の隠岐脱出に重要な役割を果たした長田(後に天皇から恩賞として与えられた名和が苗字として定着したが、本人が名和を称したことはない)長年軍勢催促状とともに長田氏一族の発給文書であるが、これに何の根拠もなく「高岡高重」との誤った注記を付し、『鳥取県史』史料編にも源高重願文は収録されなかった。

2020年5月 6日 (水)

飯石郡の地頭2

 六波羅探題北方は寛喜二年に北条重時が就任し、その後も嫡子長時、庶子時茂、嫡孫義宗と極楽寺(重時)流が続いたが、評定衆に転じた義宗の後任は政村の子時村であった。逸見氏は重時流のもとで和泉国守護名代を務め、時村が守護となった際も代官に起用されたのであろう。この逸見六郎有綱が熊谷郷地頭と同一人物であろう。逸見氏の熊谷郷地頭補任は鎌倉初期ではなく承久の乱後であろう。
 その後、熊谷郷は上下に分かれ、上郷は最後の得宗高時の母に比定できる「相模禅尼」領に、下郷は逸見氏領として維持されている。ともに室町幕府のもとでも維持されたが、明徳の乱後、上郷は幕府御料所となり、下郷は逸見弥六当知行分が守護京極氏から三刀屋氏に給恩として与えられている。弥六が山名満幸に与同したためであろう。
 承久新恩として三刀屋郷地頭に補任された諏訪部氏は越後国佐昧庄内の一分地頭であった。三刀屋郷の文永八年の田数は二一町であるが、中山間地に立地するためその領域は現在の雲南市三刀屋町の半分以上を占める大規模国衙領であった。その位置も近世初期に堀尾氏が松江城とともに三刀屋城を整備したように、斐伊川中流域の要地を占めていた。そのため諏訪部氏は早くから三刀屋郷内に入部し、郷内の開発を進め、その結果、惣領三刀屋氏と庶子佐方氏の間で境界をめぐる対立が生じていた。三刀屋町南部の飯石郷は一二世紀半ばに崇德天皇の御願寺成勝寺に寄進されたが、後に国衙領に戻されている。武蔵国御家人目黒左衛門入道であった。建久元年に頼朝が上洛した際の御陣の随兵に「目黒弥五郎」がみえ、承久の乱での手負い人の中に「目黒小太郎」がみえる。南北朝初期には目黒太郎左衛門尉が三刀屋郷への押妨停止を命じられ、摂津国頭陀寺地頭として目黒弥太郎がみえる。目黒氏の飯石郷地頭補任は承久新恩であろう。
 以上のように大原郡と境を接する飯石郡北部は東国御家人が地頭となっていたが、南部では鎌倉以前からの国御家人が地頭であった。多祢郷と日倉別宮地頭多祢(頼重ヵ)は勝部宿祢一族で惣領朝山氏に次ぐ位置にあった。来島庄(田数二〇町)地頭来島松助入道は北側に接する神門郡伊秩庄(六〇町四反三〇〇歩)の地頭でもあったが、両庄の庄園領主は不明である。石清水八幡宮領赤穴庄(田数五〇町二反六〇歩)地頭赤穴太郎は平安末期に赤穴庄が立券された際に下司として派遣された社家の一族紀氏の出身である。いずれの庄郷も広大な領域を有していた。

飯石郡の地頭1

 前に述べたように、過去には飯石郡内としていた伊秩庄を神門郡内に変更している。須佐郷とともに両郡の境界に位置した庄園である。
 須佐郷は鎌倉初期には杵築大社国造出雲宿祢の同族が郷司を務めていたことが確認できるので、承久の乱により出雲宿祢が所帯を没収され、北条得宗領となったと思われる。出雲国西部では斐伊川東岸の神立(古代の大社神戸の流れを引く大田郷に隣接)とともに得宗領となっており、大社との関係で設定されたのであろう。国造職をめぐる争いで新興勢力である出雲宗孝流に国造の地位を奪われた一族が須佐国造となっている。永正八年の棟札によれば寛元元年と永仁六年(一二九八)に造営が行われたことを記し、由緒書では前者を将軍頼嗣(この時点では将軍は父頼経)が、後者を久明親王(尊氏とするものもあるが誤り)とする。寛元元年は得宗北条経時の就任の翌年で、永仁六年は得宗貞時により永仁徳政令が出された翌年である。須佐郷地頭職は幕府滅亡により建武政権によって没収されたはずだが、はっきりしているのは崩壊後の建武五年に足利尊氏が石清水八幡宮に寄進している。
 文永八年の熊谷郷地頭「逸見六郎」は甲斐源氏に属する東国御家人である。和田義盛の乱で義盛方として討たれた中に逸見氏の一族三人がみえ、勢力を低下させた。承久の乱への関わりは『吾妻鏡』では確認できないが、『承久記』には東山道軍の中に「逸見入道」がみえる。『尊卑分脈』には逸見太郎惟義が勲功の庄として摂津国三条勅使田を得たとし、乱後の和泉守護人としてみえる逸見入道を惟義に比定する説もある。文暦元年(一二三四)一一月一三日には六波羅探題から逸見入道に対して、近衛家領として立券された日根庄に対して地頭や守護代から非論をなすものがあれば成敗するよう命じている。これに基づき佐藤進一氏が承久~宝治年間に逸見入道が和泉守護であったと評価したが、伊藤邦彦氏は乱後の守護正員は北条重時であり、逸見入道はその職務を代行する立場にあったとした。近年確認された嘉禎四年始の守護リストでも重時が守護である四ヶ国に和泉が含まれており、伊藤説が正しいと思われる。守護代は別にいたが、探題が守護兼務であったため、このような体制となったのであろう。宝治元年五月の京都新日吉社小五月会の流鏑馬で、六波羅探題北条重時が催した一番の射手を「逸見四郎源義利」が勤めており、北条氏との関係を深めていた。
 弘安九年閏一二月一三日の逸見六郎有綱書状が残されている(久米田寺文書)。和泉国久米田寺の別当となっていた得宗被官安東蓮聖から荒野を寺領とする申請があったことを了解する内容で、貼紙には「弘安九年逸見六郎施行」と記されている。有綱は和泉守護北条時村(六波羅探題北方)の代官として施行しているのだろう。ただし、義利と六郎有綱は『尊卑分脈』では確認できない。 

2020年5月 5日 (火)

大竹寺地頭志貴氏について

 文永八年の大原郡大竹寺地頭「志貴左衛門四郎」については関連史料がなく、不明とせざるをえなかったが、同音異字や他の苗字の可能性を検討していた。ちなみに佐伯徳哉氏の「文永八年杵築大社三月会相撲、舞頭役結番注文荘郷・地頭一覧」(前掲著書)では「志賀」となっていた。志賀氏なら大友氏の一族にもいるが、特に注記もないので、『佐草家文書』(島根県古代文化センター)に収録されている佐草家文書写真版をみた。「志貴」であることは明白で、『北島家譜』でも同様の読みで、単なる誤植であった。
 そうした中、別件で『(神奈川県)厚木市史中世資料編』をみていたところ、「肥後志岐文書」に遭遇した。肥後国天草の志岐浦などを支配した家の文書である。系図では志岐氏を菊池氏の一族としているが、菊池氏の系図との間に齟齬があり信憑性には問題があるとのこと。残っている文書から確認できることは、建暦二年(一二一二)八月二八日関東下知状により藤原光弘が天草郡内六ヶ浦(志岐浦を含む)の地頭職を安堵されている(鎌一九四〇。元久二年(一二〇五)七月一九日御下文(その二年前に頼家の後任となった実朝ヵ)により認められた権利が元の如く安堵されている。系図では光弘の祖父弘家が志岐を号したとされるが、前述の大江氏が大島を得て大島氏と号したように、光弘は東国御家人として天草郡内六ヶ浦を与えられ、その中心であった志岐浦を苗字の地としたのだろう。
 貞永二年(一二三三)には天草郷内本砥嶋の本主「たねあり入道」がその地頭職を播磨局を嫡子として譲っている(鎌四四四五)が、元徳元年には志岐兵藤左衛門入道弘円が、播磨局の文応年間の置文により弥次郎入道仏意領となっていた本砥嶋内宮路浦を、惣領である自分に付け、仏意を悪口と御下知違背の罪科に処することを求めている(鎌三〇七六七、『厚木市史』所収)。弘円は仏意と相模国愛甲郡依智郷についても争っているように、東国とのつながりを持つ御家人であった。
 現段階で苗字が「しき」という音の御家人は志岐氏のみであり、大竹寺地頭志貴左衛門四郎は志岐氏の一族であると考えたい。大島氏と同様、東国(相模国ヵ)から九州に入部した御家人が出雲国にも所領を有していたことになる。

2020年5月 3日 (日)

鎌倉時代以降の庄園2

 最初に驚かされるのは天皇家領の冒頭にある「来海庄」の公田数が二〇町とされている点である。文永八年結番帳の二番の相撲頭と舞頭に来海庄がみえるが、写す際の錯乱を修正していかなければならない。佐伯氏は記載のある二つの一〇町をそのまま足しているが、その正しい作業は、『宍道町歴史史料集』の中で編者井上寛司氏が行っている。来海庄の田数は相撲頭の九〇町七段六〇歩と舞頭の一〇町を合計した一〇〇町七段六〇歩(ただし、一番の合計田数との間に微妙な差がある)である。来海庄の初見は安元二年であるが、本家歓喜光院が建立されたのは鳥羽院政期である。新庄が本庄から独立していないが、永享一一年の寄進状(弘長寺文書)には「来海庄新庄分」とみえる。
 次いで神門郡「林木郷(庄の誤植であろう。ただし出東郡である)」が天皇家領にされているが九条家領である。皇嘉門院、宜秋門院という九条家出身の女院の名義とされたが、これを天皇家領とする人は中世史研究者はいない。美談庄とともに南北朝期の文書には「領家分」と記されているが、これは地頭分に対するもので、九条家が両庄の本家であり、その家司等が領家であった。林木庄地頭職が出雲守護から室町院領に寄進されたため院領目録にみえるが、守護佐々木泰清の長子義重に譲られていた美談庄地頭職は室町院に寄進されていない。九条家領としてみえる末次保が、文永五年に五辻家が本家となったと記されるが誤りである。九条家家司の領家職を五辻家が相伝したものである。
 島根郡の長海本庄が上西門院領、新庄が德大寺家領とされているが、長海庄は松江市史の中世史料の追加分に明記されているように、待賢門院の御願寺円勝寺領である。崇德院の失脚により女院の娘上西門院が継承したため、その目録にみえている。その後、本庄と新庄に分かれ、新庄は德大寺家が領家で、地頭職が幕府から德大寺家に寄進されていたため、本所一円地であったが、賀茂(福田)庄と異なり、杵築大社三月会の頭役は負担していた。一方、本庄は地頭である持明院所少将基盛が領家を兼ねていたと思われる。德大寺氏と異なり持明院基盛は将軍に仕える御家人であったため、地頭としてその名が記された。
 九条家(東福寺)領法喜庄については下地中分の史料が残っている。地頭が奈子氏であることから、結番帳の春日末社であることは明白であるが、佐伯氏の表では「法吉社」としている。春日末社は田数一三町、法吉社(地頭は渋谷権守三郎)は田数二三町で、別の所領である。大原郡大西庄が上賀茂神社領でないことは前の記事で述べた。能義郡母里郷は応保元年には左近衛府領であったが、後に地頭職が室町院に寄進された。赤江郷も宝治元年には掃部寮便補保であったが、後に地頭職が六波羅探題料所とされ、それが「赤江庄」と呼ばれた。
 以上のように、佐伯氏は地頭職が寄進されたケースを正しく理解しておらず、本家と領家の違いも理解が不十分であり、その一覧表は参照してはいけないレベルのものである。なお、前にも述べたことがあるが、文永八年結番帳は大田文に基づき作成したものであり、公領については直近の検注を踏まえた田数であるが、庄園は平安末期の田数で固定化されている。

鎌倉時代以降の庄園1

 中世庄園成立の中心時期は白河院政期後半、鳥羽院政期、後白河院政期であるが、一三世紀後半には新たなタイプの庄園が生まれてくる。一般的には「武家領・本所一円地体制」という用語が使用されるが、その前提となる下地中分がどの程度行われたかのデータがなくその実態は不明である。それよりも、地頭職が得分化し、寄進される事態が大きい。横田庄では三処左衛門後家により地頭職が六波羅探題北方の北条時輔に寄進された。文永九年に時輔が異母弟時宗により殺害されると、地頭職は幕府の管理下に置かれ、三処郷地頭職とともに時輔の母妙音に与えられた。妙音が横田庄中村八幡宮棟札で「地頭平氏三所比丘尼尼妙音」と記されている。これにより寄進者として地頭代を務めていた三処氏の権益は失われ、没落を余儀なくされた。
 妙音の死後は幕府により各種料所に宛てられたが、倒幕に成功した後醍醐は横田庄地頭職を石清水八幡宮に寄進した。ただし、建武政権が短期間で崩壊したため、その寄進はリセットされた。その後、八幡宮領としての横田庄の実態も不明となる。これに対して、文永八年には北条時宗が地頭であった須佐郷も、幕府滅亡により同様の運命を辿ったはずであるが、後醍醐がどこに寄進したかは不明である。はっきりしているのは建武政権から離脱して室町幕府を樹立した足利尊氏により、須佐郷地頭職が石清水八幡宮に寄進されたことである。横田庄と異なり、須佐郷と石清水の関係は近世にも続いている。
 守護佐々木氏による守護領得分(地頭職)の寄進も行われた。文永八年の時点では、秋鹿郡伊野郷と出東郡志々塚保が持明院=室町院に寄進されているが、その後も増加している。その所領は一四世紀初めの室町院領目録に「武家所進地頭職」として記されている。昭慶門院(実際は亀山院)領目録に庁分としてみえる「岡本庄」「温(塩)冶庄」も地頭職が寄進されて成立したもので、国衙領が庄園に変更されたものではない。
 以上の点は『竹矢町誌』でその一部を述べ、『松江市史』でまとめて述べているが、なかなか理解してもらえないのが実情である。それを佐伯徳哉氏作成の「出雲国内主要領主別庄園(鎌倉時代)」(同氏『権門体制下の出雲と荘園支配』)を例に以下で確認する。

 

2020年5月 2日 (土)

仁多郡内の庄園公領

 仁多郡内で二〇町以上の田数を持つのは横田庄(五五町)と馬木郷(三五町二反大)のみである。ともに仁多系勝部宿祢が中心となって開発を進めた所領と思われるが、文永八年の地頭は六波羅探題南方の北条時輔と上野国御家人多胡左衛門尉であった。横田庄は一の谷合戦に参陣した横田兵衛尉跡を同族の三処氏がその継承を認められていたが、国御家人三処長綱が死亡し、東国御家人出身と思われる後家尼の時代に庄園領主石清水八幡宮との対立が強まる中、時輔に地頭職を寄進したものである。多胡氏は国衙領最大の所領である意宇郡出雲郷と楯縫郡平田保の地頭でもあったが、鰐淵寺への所領寄進状にみえるように守護佐々木氏との間に密接な関係を有していた。室町期の出雲守護京極氏は上野国多胡庄地頭職を支配していたが、それが鎌倉時代にまで遡る可能性もあろう。
 その他の所領も田数こそ少ないが、斐伊川沿いの要地を占めたり、広大な領域を持つものであった。前者の代表が田数四町四反の三沢郷である。その地頭である信濃国御家人飯島氏は戦国期には勢力を拡大し、出雲国南部の最有力国人に成長している。阿井郷を苗字の地とする国御家人阿井氏の場合、阿井郷そのものは幕府の管理下に置かれ頼朝法華堂別当僧都尊範が給分として与えられていた。一方、阿井左衛門尉子が地頭であった比知新宮については、阿井郷に隣接して所在した可能性があるが、その一方で仁多郡内の過半数の所領が属した一二番ではなく、一番に属しており、そこから大原郡内の所領である可能性もある。興国元年六月二五日には比知新宮半分地頭職が得勝寺播磨房歓善跡に与えられている。合戦で歓善が討死したことに対する恩賞であろう。同時に淀本庄一〇分一地頭職が菅三郎義綱跡に与えられているが、淀本庄も大原郡内の所領である。郡内北端の布施郷と布施社の地頭は大原郡大東庄内、仁和寺庄、近松庄地頭と同族である神保氏であった。
 治承・寿永の内乱で領主が没落した横田庄の継承が同族の三処氏に認められたように、鎌倉初期に東国御家人が地頭に補任された可能性が大きい所領はなかったと思われるが、承久京方により没収され、神保氏、飯島氏や幕府領とされた。

2020年5月 1日 (金)

大原郡の地頭

 この点についてはかつて述べたことがあったが、現時点の最新版にアップデートしたい。
 大原郡の文永八年の地頭で、国御家人であるのは佐世郷地頭湯左衛門(清綱)四郎のみである。以前は、大東庄内遠(縁)所を苗字とする縁所後五郎も国御家人としていたが、土屋垣屋氏系図により、土屋忠光の子光直流であることが確認できた。土屋氏は鎌倉初期に、大原郡では福田庄とともに、大東庄内遠所、養賀、飯田(含む阿用)の地頭職を得ていたことは確実である。ただし、土屋六郎左衛門入道は四郎左衛門入道の誤りであろう(土屋垣屋氏系図)。残る大東庄南・北の地頭飯沼氏(信濃)と千葉神保氏(1981年の時点では上野国としていたが下総国臼井庄神保郷を苗字の地とする。本来は上総氏の一族)については承久新恩の可能性が高い。承久の乱では神保太郎・神保与一・神保与三が勲功を上げ、飯沼三郎とその子息一人が討死している。
 三代庄地頭本間対馬二郎左衛門尉は、『吾妻鏡』文応二年一月二日の垸飯で二御馬を勤めた武蔵五郎時忠(大仏朝直子)の補佐役「対馬次郎兵衛尉」、弘長三年一月八日と一二日に御的当の射手を勤めた本間対馬次郎兵衛尉、対馬次郎兵衛尉忠泰と同一人物であろう(小泉宜右氏「御家人本間氏について」、小川信先生古希記念論集『日本中世政治社会の研究』1991年所収)。忠泰は本間対馬守忠家の孫で、父忠貞は北条時房が承久の乱の恩賞として得た伊勢国(同時に時房が守護に補任される)内16ヵ所の所領の一つを、時房の申請により与えられている。本間氏は乱以前から時房の家人として活動していた。三代庄の庄官三代氏は一の谷合戦に平氏方として動員されており、鎌倉初期に東国御家人が三代庄地頭に補任された可能性が大きいが、それが本間氏であったかは史料を欠き保留する。猶、意宇郡揖屋社地頭安東宮内左衛門尉は、文応二年正月一日の垸飯で三御馬を勤めた越後四郎顕時(金沢実時の子)の補佐を勤めた安東宮内左衛門尉、弘長三年一月三日の垸飯で一御馬を勤めた相模七郎宗頼(時頼の子)の補佐である安東宮内左衛門尉景光と同一人物であろう。景光は北条氏の近臣であった。(垸飯については永井普氏「鎌倉幕府垸飯の成立と展開」、小川論集1991がある)
 『吾妻鏡』には文治五年七月二五日以降、本間義(能)忠の活動が確認できる。系図によると義忠は同年の奥州藤原氏攻撃で戦功をあげ、将軍実朝のもとで播磨守護に補任されたとするが、守護については確実な史料を欠いている。能忠の子能久には佐渡守護との記載があるが、実際には守護北条氏のもとでの守護代であった。なお、以前の記事「広田氏について」で本間氏を武蔵国御家人としたが、相模国に訂正する。
 木次上村地頭大井新左衛門尉(重泰)と広田庄地頭品川弥三郎(胤信)は同族(紀姓)で武蔵国御家人である。大井氏は実春が因幡守大江広元のもとで目代を務めている。一の谷合戦に木次氏が参加しており、両所領は鎌倉初期に大井氏と品川氏が地頭に補任された可能性が大きい。承久新恩であることが確認できるのは淀本庄地頭中沢氏(信濃)、日伊郷・福武村地頭伊北氏(当初は大西庄ヵ)、久野郷地頭中郡氏である。その他については不明である。
 大原郡内の所領の中で、広田庄と福武村についてはその所在を示す明証がない。字「広田」が木次町木次に残っており、斐伊川から分岐した久野川の下流域北岸が木次上村で、南岸が広田庄であろう。南北朝期に登場する「日登郷」は南岸にあり、本来は広田庄から独立したものであろうか。福武村は同じく伊北氏領となった日伊郷(雲南市木次町里方と山方)に隣接する場所であろう。

 

大西庄と大西庄司

 大西庄について佐伯徳哉氏「大西荘猪尾谷村東方の相論・和与からみた地頭職の内部構造」(『権門体制下の出雲と荘園制支配』、二〇一九)が言及しているが、三つの致命的な事実誤認が含まれている。第一には大西庄を上賀茂社領とする点で、関係史料には大西庄の庄園領主に関する情報は皆無で不明とせざるを得ない。第二には大西庄が現在の雲南市加茂町猪尾・東谷付近に比定されるとする点で、その一方で猪尾谷村は同庄東方に属すとする意味不明の記述もみられる。そして第三には治承・寿永の乱で大西庄司が平家方となり、その跡に伊北胤明が地頭に補任されたとする点である。
 当然のことながら、大西庄の中心部分は現在の雲南市加茂町大西であり、福田庄を間に挟んだ西側の飛地が飯尾谷村(その意味では大西庄西分)である。七七町の加茂庄と二二町の大西庄の田数からして、宇治・南加茂は加茂庄内であろう。大西は「大東」の対語であり、本来は加茂庄の地を含んでいたと思われるが、その中心部分が上賀茂神社に寄進されてしまった。その後、残りの部分が大西庄として立券されたものである。その意味では加茂庄の下司・庄司と大西庄司が同族であった可能性は残されている。
 佐伯氏は正和六年時点で大西庄西方を惣領飯沼左衛門五郎入道が、東方を庶子の飯沼親泰が支配していたとするが、大西庄内猪尾谷村の西方が現大西村部分とともに惣領分で、猪尾谷村東方(現東谷)が庶子分であった。親泰は東方一分地頭職を妹と思われる源氏女に譲ったが、氏女が佐草氏に嫁いでいたこともあり、所領の境界等をめぐり対立が生じたものである。
 雲南市大東町曹洞宗長安寺(清田102)の正和二年棟札によると、檀那源朝臣信乃四郎左衛門尉と同源氏女法名充祐により再建がなされている。文永八年の大東庄内地頭飯沼四郎の後継者が信乃四郎左衛門尉であろう。これに対して大西庄の惣領が飯沼左衛門五郎入道であった。伊北胤明は貞応元年に大西庄司跡の猪布(尾)谷地頭に補任され、その直後に福田庄が没収の対象だと主張して地頭に補任され、嘉禄二年に福田庄地頭に補任されたのが胤明の子時胤であった。なお、文永八年の湯郷と拝志郷地頭大西二郎女子は大西庄司の関係者である。承久の乱後に新たに勝部宿祢惣領となった勝部馬太夫元綱は大原郡佐世郷を本領とする一族に属し、大西庄司もその同族であろう。

福田庄と伊北氏

 能義郡福田庄は文永八年結番帳には第二番相撲頭役の項に載せられたが、当時地頭が補任されていなかった。上賀茂神社は一円地であるとして、同じ神社である杵築大社三月会の負担を第一巡目から拒否してしまい、新体制は最初から見直しを余儀なくされてしまった。
 福田庄は平家没官領・謀反人跡として、東国御家人土屋宗遠が補任されたが、一方で頼朝は寿永三年四月二四日に福田庄を含む上賀茂神社領に対して狼藉や武士による濫妨停止を命じていた。出雲国で大東庄内を含む多数の所領を得たこともあって、宗遠の養子忠光が家臣とともに出雲国に入部した。賀茂社は福田庄代官実法法師が神役を欠怠するなどの非法を行ったとして、宗遠の地頭職の停止を求め、文治二年九月には幕府がそれを認めた。
 ところが、福田庄は承久の乱の没収地とされ、貞応元年(一二二二)には上総国伊北庄を苗字の地とする御家人伊北胤明が新恩地頭に補任された。補任の経過には不分明な点もあるが、自らが新恩地頭に補任された猪布庄と同様に、福田庄が大西庄司の跡だと主張して、追加で没収注文に入れられた福田庄地頭職に補任された。川合泰氏『鎌倉幕府成立史の研究』が説いたように、占領地に乗り込んだ伊北胤明の主張を幕府が認めた形である。福田庄は結番帳で田数七七町の大荘園であるが、認められたことになる。これに対して上賀茂社側は福田庄は大西庄司跡でもなければ、大西庄司口入之地でもなく無関係だと主張してたため、翌二年七月には幕府がその主張を認め、地頭職補任を撤回した上で、胤明による福田庄への狼藉停止を命じた。その過程で幕府が福田庄の替えとして大西庄司跡である飯野庄(猪布庄とともに大西庄を構成する所領か)を与えているが、胤明はその下文をも福田庄への干渉の口実とした。
 これで問題解決とはならず、伊北氏側は今度は、福田庄が乱で処罰された上賀茂神社神主能久の所領だとして地頭補任の正当性を主張し(再審請求=越訴)、幕府が嘉禄二年(一二二五)一二月に胤明の子時胤を福田庄地頭に補任した。次いで上賀茂神社側は、福田庄が大西庄司跡であることだけでなく、承久の乱以前から胤明が福田庄地頭であったことも事実ではないとして幕府に再考を求めたが、幕府は安貞二年に時胤に地頭職安堵の下知状を与えている。
 上賀茂神社側は三度目の正直だとして、今度は福田庄は神主能久の私領ではなく代々の神領だと主張し、大西庄司跡でもないことを周辺所領の御家人の連署状を副えて訴えた。この主張が認められ、幕府は貞応元年八月一九日関東下知状で、福田庄地頭職を停止する命令を出した。二転三転したが、ようやく確定判決となった。文永八年の伊北氏領は大原郡内日伊郷(田数一一町一八〇歩)と福武村(五町一反六〇歩)であり、大西庄(二二町)の地頭は飯沼四郎子である。飯沼氏は信濃国出身の東国御家人で、その父飯沼四郎は大東庄(南分ヵ)の地頭であった。貞応元年の確定判決と同時に、伊北氏による福田庄への干渉の再発防止のため伊北氏領と飯沼氏領の交換がなされたと思われる。

別符氏と西條氏2

 文書1)は文永八年の地頭余一入道(盛元、法名如願)から養子盛定への譲与を幕府が安堵したもので、その中に東江袋村内屋敷名田とともに真松保(除百戸分)がみえる。利弘庄と百戸分は別の人物に譲られたのであろう。東江袋村は別符郷の東北端と境を接していたが、余一入道の所領には西條がみえないことから、惣領家ではなく庶子家であったと思われる。
 西條氏の苗字の地西條郷は永仁元年一一月一五日に西條弥六法師西願から児玉弥次郎氏元後家尼妙性に沽却され、同三年九月一三日関東下知状(駿河西敬寺別符文書)で安堵されている。妙性が西條氏の出身であるのだろう。
  元応元年七月一二日関東下知状(駿河別符文書)は満資以降の西別符氏に関する情報を提供している。武蔵国東光寺の修理を行うことになり、東別符太郎幸時が一方の免田(修理田)を知行する西別符二郎左衛門尉重光が寄り合わないとして幕府に訴えた。何度か召符が出される中、重光は西別符は母である尼崇恵が知行しており、陳答できないとして当領主(当事者崇恵)が子細を述べるべきだとの請文を提出した。そこで崇恵に召符を出したが、不参であり、今に至まで返事がないのは召文違背の咎が遁れ難いとして、修理を行うべきことを命じている。明記されていないが、幸時だけでなく、武蔵守護へも命じたものであろう。
 崇恵は左近太郎光綱の後家と記されており、夫光綱(満資の孫=西別符氏)の死後、実権を持っていた。前述HPでは東光寺は別符氏の氏寺ではなく公的な寺ではないかと推測し、幕府法令が引用されているが、明確なのは、東光寺の修理田が東西両別符郷内にあったことである。西側が負担しないので、東側が訴えたものである。両家の初代能行と行助は太郎と次郎でともに任官していなかったが、二代目は刑部丞維行と左衛門尉満資と任官している。三代目も右兵衛尉行忠と左近将監宗助であり任官している。それが四代目は兵衛太郎行宗と左近太郎光綱であり、任官していない。東の五代目幸時も元応元年の時点で「太郎」であった。それに対して西の五代目は二郎左衛門尉重光と任官していることがわかる。母崇恵の出自が関係しているのであろうか。東別符氏は代々「行(幸)」を通字としているが、西別符氏は三代目までは「助(資)」を通字としていたが、四代目と五代目は「光(満)」を通字としている。後家崇恵と北条貞時の法名(崇暁・崇演)との関係も気になるところである。ともあれ、西別符氏は幕府滅亡とともに姿を消し、東別符氏は建武元年五月三日後醍醐天皇綸旨で上野国佐貫内羽彌継を勲功の賞として与えられている。
 川越市光西寺は永禄九年に石見国浜田で開基された浄土真宗寺院であったが、天保七年(一八三六)に浜田藩が竹島(現鬱陵島)での密貿易に関与したことで、老中首座でもあった松平康任の子藩主康爵は奥州棚倉に転封された。その際に光西寺も棚倉に移り、次いで慶応二年(一八六六)には分家松井家から松平家を継いでいた前老中康英が武蔵国川越藩に転封されると、光西寺も川越に移って今日に到っている。文書は松平・松井家の所蔵文書であった。

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