koewokiku(HPへ)

« 船村徹2タイトル落札2 | トップページ | 常陸親王令旨1 »

2020年4月 2日 (木)

斐伊川流域と洪水

 検地帳は戦後しばらくは、太閤検地の意義や百姓の階層分析に盛んに使用されたが、実態とのズレが認識されてからは使用されなくなった。とはいえ、地域の実態(地誌)を考える上では今でも重要な情報を提供してくれる。
 少し前まではその地域の開発の進行や洪水の有無について注目していたが、耕地開発には灌漑の整備によるものがあるという至極当然な事に気づいて、検地帳を見直している。そのためにはポイントとなる時期について、比較対象を含めて検地帳が残っている必要があるが、都合の良い事例は少ない。
 中世は塩冶郷内の村であった高岡村については、慶長七年(1602)と寛文九年(1669)の検地帳が残っている。惣田数こそ51町9反余から62町9反余に増加しているが、反別1.5石以上の割合は57%(29町余)から23.2%(14町5反余)に低下していた。前者では最低でも反別1石であったが、後者では一石未満の田(下々田、新下々田)が19.8%を占めている。付された字をみても、慶長7年の時点では細かく記されていた(古川もあるが筆数は少ない)が、後者では13の字のみで、横枕と屋敷餘が多数を占める。以上の点からこの間(1602~69)に洪水により水田が土砂で埋まるような災害が発生した事がわかる。寛永末年の洪水前状況を示す出雲国絵図では、斐伊川から分岐して高岡に至る流れが消滅しており、慶長七年からそう間を置かない時期にも洪水が発生したことは確実である。
 朝山郷北端で大社領遙堪郷と川を挟んでいた常松村には、元和七年(1621)と貞享四年(1687)の検地帳が残っている。惣田数は18町から29町余に増加しているが、前者には細かい字が記されており、その中には「古川」が22筆、「河よけ」が7筆みえ、これ以前に河の流路が代わったことがあった可能性が高い。後者は9字に統合され、「古川」が37筆ある。この原因となったのは寛永末年の洪水であり、貞享四年までにはある程度回復し、新田開発も行われた。一石五斗以上の割合は、61.6%(11町余)から38.5%(11町余)に低下している。常松村は元和七年以前にも洪水で水田が土砂で埋まる事態があり、且つ河の流路が変わることもあったが、生産は回復していた。それが、寛永末年までに再度洪水があり、前回以上の被害が出、貞享四年の時点でも完全には回復していない。一石五斗以上の田数は元和元年とほぼ同じであるが、前者は上々田(一石七斗)が40%であったのに対して、後者は上々田(一石八斗)が11%で、中田(一石㈣斗)の割合が16.5%から51.8%に増加している。
 二つの事例ではあるが、寛永末年までに少なくとも二回の洪水があったことがわかる。一つ目が慶長七年から元和七年までの間の洪水である。遙堪村阿須伎社蔵の「天日隅宮末社傳」によると、慶長一四年八月一七日の洪水で社殿が壊れ、神寳等が全て流出したとしている。翌一五年、松江藩による鉄穴流し禁止令が出されたのは、この洪水をうけてのものであろう。二つ目が寛永末年の洪水である。最初の洪水で、斐伊川から分岐し高岡へ、斐伊川分岐点から常松への流路は途中で埋まってしまった。高岡から常松に至る流路も同様であろう。とりあえず、斐伊川下流域で一七世紀に入り、寛永末年の洪水の前にも大規模な洪水があったことが確認できた。

« 船村徹2タイトル落札2 | トップページ | 常陸親王令旨1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 船村徹2タイトル落札2 | トップページ | 常陸親王令旨1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ