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2020年4月12日 (日)

日野俊基と石見国2

 日野有隆とその子は後三条天皇の子輔仁親王の遺児で久安三年(一一四七)に四五才で死亡した源有仁に仕えていた。輔仁の母は源基平の娘基子であり、その同母弟行宗は、輔仁とその子有仁に仕えていた(康治二=一一四四年に八一才で死亡)。その行宗が養女としていた兵衛佐局(実父信縁は保延四=一一三八年に死亡)は保延六年に崇德院との間に第一皇子重仁を産んでいる。有隆の子が崇德院領長野庄の支配に関係した可能性は高い。益田氏の祖とされる国兼は、益田季宗の子であるが、嫡子は兄国季であり、国兼は益田庶子として長野庄の第二次立券に参加している(この参加者は石見守源国保とその父雅国にちなむ「国」をその名に付けている)。系図で国兼が日野有隆の子と記されたのはこうした背景によっている。
 その後の石見国と日野氏の関係を示すのは、日野資朝の遺児邦光(左兵衛佐、当国先国司)が暦応三年から四年にかけて、高津氏、三隅氏、福屋氏らの南朝方とともに石見国西部で幕府方の守護(大将軍)上野頼兼と戦っていることである。その後、正平五年(一三五〇)七月一一日には北畠親房に河内国網代庄領家職を与えた後村上天皇綸旨(妙心寺文書)の奏者としてみえ、吉野に戻っていたと思われるが、同年一〇月二一日綸旨では、勅使として左兵衛督邦光を九州に派遣することが伝えられている。権中納言に進んだ邦光は正平一八年に、四四才で死亡している(系図纂要)。
 最後に正中の変前の石見国の状況について確認すると、鎌倉末期の知行国主と国守として確認できるのは応長元年(一三一一)の西園寺公衡・大江景繁と、元亨三年(一三二三)から元徳二年(一三三〇)年にかけての四条隆有・子隆持である。隆持は補任時六才であり、父隆有が実権を持ったと思われる。隆有は後醍醐即位の前年に参議に補任されており、西園寺公衡と同様、持明院統系の人物であろう。ただし「鎌倉末期の石見国衙」で述べたように、応長元年から元弘三年にかけて石見国目代は山城国梅津下庄を支配していた藤原清隆(性圓)であった。当時は目代も本人は在京し、又代官を派遣することが多かったとされるが、性圓は在京する関係者を通じて朝廷との連絡・折衝にあたり、二〇年以上も石見国に在国していた。元弘三年に所領の当知行を安堵する石見国宣が多数出されているが、そこに「御目代藤原」と署判しているのが性圓である。その意味で、日野俊基が石見国の詳細な情報を得ることは他国より容易であったと思われる。
 質問へのストレートな回答は資料がないため不可能だが、日野俊基や花園宮が石見国と関係を持つ環境は整っていた。(とりあえず、この記事が2500本目のアップとなった)。

 

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