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2020年4月21日 (火)

斐伊川の流路と鉄穴流し

 詳細を自分自身で検討していないが、松江藩による斐伊川上流での鉄穴流し制限の第一弾は慶長一五年(一六一〇)から寛永一三年(一六三六)までだとされている。制限の原因は前述の慶長一四年の洪水であろう。斐伊川流域の豪雨による洪水と、出雲平野北部の豪雨による洪水の二つが考えられる。問題は寛永一三年に制限が解除された方で、寛永年間の洪水は『旧島根県史』の説く寛永一六年ではなく、一〇年と一二年に実際に発生したと考えられる。一〇年の方が大規模で、その治水対策中の一二年に再度の洪水が発生したが、一〇年ほどではなく、さらに治水工事を行ったので解禁したのであろうか。正直なところよくわからない。
 戦国期以降の洪水とそれに伴う流路変更としては、やはり永正七年(一五一〇)に「神門郡杵築大社領内」とみえるので、それ以前、仮に一五〇〇年頃にあったとしておく(文明四年=一四七二に神門郡日御崎検校とあり、それ以前であった)が、それまでは西岸の武志郷-稲岡郷-高浜郷と栃島村-荻原村-高岡村の間を流れる本流と、東岸の北島村の北から北東方向に流れる流れが中心であったが、本流は埋まり、北進する流れに変わった。ただし現在のルートより西側に入り込み、「川跡」を通り、その北で東に向きを変えていた。この流路変更により、出雲大社・日御崎社とその所領は所属が出東郡から神門郡に変わった。尼子氏による原手三郡(神門郡・出東郡・大原郡)の設定は、この変化に対応するものであった。
 この変化を「大津龍王神社古今神秘集」では「依之出雲郡半余ニ割神門郡ニ編入シ旧高六万余ノ大郡トナリ、故ニ田畠共ニ増殖セル」と記した。ただし時期は天正元年ではなく、一五〇〇年頃(一五世紀中頃)であった(永正元年の誤りなら一五〇一となるが、このあたりは判断不能)。天正元年の洪水時に大社の庄官中溝三郎五郎が人夫を連れて大津から平田までの川除修理を行ったのは、それ以前に北進していた本流の洪水による。遙堪郷(村)阿須伎社蔵の「天日隅宮末社傳」に記す社殿流出は、豪雨により北山山系から土石流が発生したためであろう。一方で斐伊川流域でも洪水が発生していたため、翌年に松江藩が斐伊川上流での鉄穴流しの制限を行った。
 これに対して解禁の寛永一三年という年号は、現存する「寛永一三年出雲国十二郡図」の年号と符合している。ただし、この絵図は前後の寛永一〇年と一五年の絵図との間に違いがあり、単純に寛永一〇年図→一三年図→一五年図とはならない。一〇年図は寛永年間の洪水以前の状況を記し、一五年図は洪水後を記しているとまでは言えるのだが。寛永一三年の鉄穴流し解禁に関連して、実際はしばらく後に記憶に基づき作成したものであろうかとの仮説を立てることはできるが‥‥。歴史資料としての精度はやや落ち、前後の絵図と同様に扱うのは注意が必要である。この絵図と同内容の「寛永十三年簸川平野の図 松江の住人狩野重右兵衛尉為信作」が美多氏の論文にも掲載されており、古くからその内容が周知されていた。一方、一〇年図と一三年・一五年図の違いとして、前者では北進する本流は一本であるが、後者では本流に並行して北進するもう一つの流れ(宝永七年絵図では消滅し一本化)が描かれ、「武志」が分断された形になっている。また、一三年図のみ、斐伊川本流と西流して日本海へ流れる流路が連続しているが、他の地図では連続していない。連続していたのは一五〇〇年頃の洪水前の情報が混入したためと考えられる。

 

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