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2020年5月 1日 (金)

別符氏と西條氏2

 文書1)は文永八年の地頭余一入道(盛元、法名如願)から養子盛定への譲与を幕府が安堵したもので、その中に東江袋村内屋敷名田とともに真松保(除百戸分)がみえる。利弘庄と百戸分は別の人物に譲られたのであろう。東江袋村は別符郷の東北端と境を接していたが、余一入道の所領には西條がみえないことから、惣領家ではなく庶子家であったと思われる。
 西條氏の苗字の地西條郷は永仁元年一一月一五日に西條弥六法師西願から児玉弥次郎氏元後家尼妙性に沽却され、同三年九月一三日関東下知状(駿河西敬寺別符文書)で安堵されている。妙性が西條氏の出身であるのだろう。
  元応元年七月一二日関東下知状(駿河別符文書)は満資以降の西別符氏に関する情報を提供している。武蔵国東光寺の修理を行うことになり、東別符太郎幸時が一方の免田(修理田)を知行する西別符二郎左衛門尉重光が寄り合わないとして幕府に訴えた。何度か召符が出される中、重光は西別符は母である尼崇恵が知行しており、陳答できないとして当領主(当事者崇恵)が子細を述べるべきだとの請文を提出した。そこで崇恵に召符を出したが、不参であり、今に至まで返事がないのは召文違背の咎が遁れ難いとして、修理を行うべきことを命じている。明記されていないが、幸時だけでなく、武蔵守護へも命じたものであろう。
 崇恵は左近太郎光綱の後家と記されており、夫光綱(満資の孫=西別符氏)の死後、実権を持っていた。前述HPでは東光寺は別符氏の氏寺ではなく公的な寺ではないかと推測し、幕府法令が引用されているが、明確なのは、東光寺の修理田が東西両別符郷内にあったことである。西側が負担しないので、東側が訴えたものである。両家の初代能行と行助は太郎と次郎でともに任官していなかったが、二代目は刑部丞維行と左衛門尉満資と任官している。三代目も右兵衛尉行忠と左近将監宗助であり任官している。それが四代目は兵衛太郎行宗と左近太郎光綱であり、任官していない。東の五代目幸時も元応元年の時点で「太郎」であった。それに対して西の五代目は二郎左衛門尉重光と任官していることがわかる。母崇恵の出自が関係しているのであろうか。東別符氏は代々「行(幸)」を通字としているが、西別符氏は三代目までは「助(資)」を通字としていたが、四代目と五代目は「光(満)」を通字としている。後家崇恵と北条貞時の法名(崇暁・崇演)との関係も気になるところである。ともあれ、西別符氏は幕府滅亡とともに姿を消し、東別符氏は建武元年五月三日後醍醐天皇綸旨で上野国佐貫内羽彌継を勲功の賞として与えられている。
 川越市光西寺は永禄九年に石見国浜田で開基された浄土真宗寺院であったが、天保七年(一八三六)に浜田藩が竹島(現鬱陵島)での密貿易に関与したことで、老中首座でもあった松平康任の子藩主康爵は奥州棚倉に転封された。その際に光西寺も棚倉に移り、次いで慶応二年(一八六六)には分家松井家から松平家を継いでいた前老中康英が武蔵国川越藩に転封されると、光西寺も川越に移って今日に到っている。文書は松平・松井家の所蔵文書であった。

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