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2020年4月12日 (日)

日野俊基と石見国1

 続いて質問を受けたのが標題のテーマであった。当方は後醍醐の側近として日野俊基と資朝の二人がいた程度しか認識していなかった。後者は公卿になったことで、正応三年(一二九〇)の生まれであることが確認できる。正中の変で佐渡に配流され、元弘の変の発覚により、配流先の佐渡で元弘二年(一三三二)に処刑された。四三才であった。俊基の生年は不明で後醍醐の命をうけて諸国をめぐり、反幕府方の組織化を行ったとされるが、その詳細は不明である。正中の変で逮捕されたが配流にはならず、京都に戻ったが、元弘の変で再逮捕され、元弘二年六月に鎌倉で処刑された(以上は主にWikipediaによる)。
 同じ日野家とは言っても、資朝が保元の乱後に日野氏惣領となった資長の子孫であるのに対して、俊基は資長の異母兄資憲の子孫である。資朝の父俊光は持明院統系の有力公卿で、皇位継承問題で使者として派遣されていた関東で嘉暦元年に六七才で死亡している。資朝は叙爵とともに関係の深い持明院統の花園天皇の蔵人に補任されたが、文保二年(一三一八)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇に登用されて権中納言まで進み、そのため元亨二年(一三二二)一一月には父俊光から義絶されている。
 一方、俊基の父種範は非参議公卿(刑部卿)であった。資憲の子基光は叔父資長の養子となっている。基光から四代目となる種範は資憲流ではひさしぶりの(資憲の父実光以来)公卿で、その子で非参議公卿となった行氏は弘安六年(一二八三)の生まれである。俊基は行氏の弟と思われ、後醍醐天皇のもとで蔵人に補任され、従四位下右中弁まで進んでいる。
 俊基と石見国との直接的関係を示すものはないが、益田庄は日野資長の妻の父源季兼が立券・寄進の中心であった。益田庄と同様に季兼が皇嘉門院に寄進した能登国若山庄の領家は日野氏であった。益田氏系図で国兼の父とされる日野有隆(親子ではないが、関係を有したのは確実)は、資憲・資長の父実光の従兄弟にあたる。また、長野庄の第一次寄進・立券の中心は待賢門院に仕え石見守に補任された卜部兼仲であったが、その後、領域を拡大して待賢門院の嫡子崇德院への第二次立券が行われた。日野資憲は崇德院の側近で、出雲大社領が崇德院に寄進された際は領家となったと思われる。

 

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