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2020年4月29日 (水)

別符(府)氏と西条氏

 文永八年に能義郡内中須郷(別府左衛門妻)と真松保・利弘庄(西條余一入道)の地頭としてみえる両氏は武蔵国最北端(現熊谷市)の幡羅郡別符郷と西條(西城)を名字の地とする武蔵国御家人である。この点についてはHP「成田氏と別符氏」により正確な場所を知ることができた。別符氏は意宇郡来海庄の地頭でもあるが、その同族で東隣の埼玉郡成田郷を苗字の地とする成田氏も能義郡坂田郷と意宇郡宍道郷の地頭であった。
 以前、関東の研究者から西條氏に関係する1)文永八年八月二五日関東下知状のコピー(「埼玉地方史」創刊号)をいただき、ワープロに入力し、関係者にメールの添付ファイルで送ったことがあったが、そのファイルが見つからないので、コピーを捜してなんとか発見したところ、埼玉県川越市光西寺の文書であった。文書は『新編埼玉県史』にも収録されていたが、同寺所蔵の2)寛元元年六月二三日将軍家政所下文は別符氏関係文書であった。
 別符氏は鎌倉初期に東別符を譲られた太郎能行の一流と西別府を譲られた次郎行助の一流に分かれ(所領は平等に譲られた)、その後しばらくは北条氏との関係を強めた西別符氏が有力であったが(建長二年の閑院内裏造営役注文には、来海庄と中須郷の地頭である「別府左衛門(別符満資)」と「別府左衛門跡」のみみえる。と建治元年六条八幡宮造営役注文には別符左衛門尉跡=西別符氏が五貫文、別符刑部丞跡=東別符氏が三貫文である)幕府の滅亡と相前後して没落し、東別符氏が史料を残している。3)元久元年一二月一八日関東下知状(集古文書)と4)安貞二年七月二三日関東御教書(保阪潤治氏所蔵文書)は両氏の所領をめぐる裁判に関するもので、西別符氏の主張を退け、東別符氏の勝訴としたもので、東別符氏が残したものである(後に流出)。
 出雲国に所領を得たのは西別符氏であり、来海庄内に弘長寺を建立しているが、西別符氏の没落後は成田氏が来海庄を得る一方で、成田氏内部でも本来の惣領家が没落し、安保信員と成田家資の娘との間に生まれた時員の子孫が成田郷を得て、成田氏を称している。この点については、『出雲塩冶誌』(2007)の中で述べたことがある。そこでは『宍道町史』が弘長寺の開基者藤原満資を成田氏としていたのを、別符氏と修正したが、HP「成田氏と別符氏」の中でも、『宍道町史』の見解を主観的なものと批判し、『松江市史』が別符氏に変更した理由がわからないとしているが、『出雲塩冶誌』に基づくものである。

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コメント

当該サイト掲載の成田系図を確認したところ、[小三郎宗資 隠岐島供奉舟上軍功]の記載がありました。これで、伯耆巻に見える。成田小三郎入道が、武蔵成田氏の一族の可能性が高くなりました。(系図の信頼性については、後日検証します。)
とりあえず御参考の為に記しました。

 現在は図書館が休館なので、開館した時点で確認します。編纂所の写本にはそのような詳細な記述はなかったと思います。

お役に立てたようで、嬉しいです。ご見解を教授頂ければ有難いです。
書き忘れましたが、表題は、[大私部姓成田家系図]です。他の成田系図と違い詳細な記述がありますが、その部分の評価が難しいそうです。町史の資料編で確認できます。


鷲宮町史史料編でしょうか。島根、鳥取いずれも所蔵しているのは発行者が寄贈したのでしょう。埼玉県の町史があることが珍しいです。

重ねての書き漏らし失礼いたしました。
手元の控えには、騎西町史が出典とかいてありますが、同時に鷲宮町史も確認した記憶がありますので、念のため両方確認するのが確実と思います。(実は、国会図書館のデジタルライブラリーで確認したので、鳥取にも本があると驚いてます。こうした意外な本があるのが図書館巡りの楽しさの一つですね。)

とりあえず、県立図書館が貸し出しのみ可能となったので、鷲宮町史を確認しましたが、当該系図はありませんでした。以前、『行田市史』にありと述べていましたが、『行田市史』は所蔵されていませんでした。
成田氏は承久新恩で和泉国信太郷の地頭にもなり、畿内でも活動しています。成田小三郎(宗資)もその関係者でしょうか。吉羽家は幸手市ですので『幸手市史』古代・中世資料編には掲載されている可能性はあります。吉羽家文書目録も刊行されているので、調査がされたはずです。

和泉成田氏には、成田又四郎の他に和田系図に国御家人和田助家の妹に、成田弥四郎妻がみえますので、この系統は、代々四郎と名乗ったものでしょうか。
また、津軽成田氏については、参考諸家系図に引用されている。成田文書によると、成田又五郎宗家、彦五郎宗員、六郎入道長信等が、亡父円信の勲功の地上野国奥平村を争っています。(この勲功の賞は、時代と土地から考えますと、安達泰盛の乱の時でしょうか?)
どうも、上の資料から考えると、陸奥の五郎系統と、和泉の四郎系統の二系統あったものでしょうか。
この他の系統の武蔵や出雲の関係ももう少し調べた方が良さそうです。とりあえず図書館が開かないと私もこれ以上調べられません。
長文失礼いたしました。

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