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2020年4月 7日 (火)

人名比定の難しさ2

 ということで、兵部卿は藤原成家(1215出家、20没)藤原忠行卿(1231出家・没)→菅原在高卿(1232出家・没)→藤原経賢朝臣(1246出家・没)→藤原成実卿(1256出家)→源有教卿と受け継がれてきた。厳密に考えると、建長五年時点での「兵部卿入道」は存在しないが、勧修寺流吉田経房の孫経賢は出家した七月二〇日と死亡した一〇月七日にはズレがあり、『葉黄記』一〇月七日条には「入道三位〈経賢〉、他界」としるされている。経房の祖父為隆以来、摂関家家司を務めてきた一流に属している。
 近衛家領の知行者も本領として継続的に支配する人物と給分として一時的に与えられた人物がいる。柿園については、『岡屋関白記』寛元四年三月一〇日条に、惟宗行経が国務を去る時に柿園を与えられた例が述べられている。行経は仁治三年三月七日に下総守に補任され、寛元二年八月二五日には大江親佐が補任されているので、これ以前に退任していたことになる。そして退任後に経賢跡の柿園を与えられたのだろう。一方、行経は建長五年の目録では榎並下庄の一部の知行者としてみえている。これによれば、行経の所領も短期間で変わっていた可能性が高い。
 なお桜井氏は「兵部卿入道」の第二候補として平時仲を上げている。時仲は建長五年時点では兵部権大輔であり、兵部卿であることが確認できるのは正嘉元年(一二六〇)年三月である。文永元年九月二〇日には四条隆親が兵部卿に補任され、翌二年一月二三日には兵部卿入道時仲とみえる。氏は弘長元年に参議に補任され公卿となった源資平が、建長五年の目録では「資平」と記された所領と「資平卿」と記された所領がある例をあげている。これによるなら、知行者は建長五年時点のものとは限らないことになる。

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