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2020年4月12日 (日)

中世益田調査概報

 国立歴史民俗博物館から概報vol3が公開されているので、今回は①沖手遺跡、②中須東原遺跡、③同西原遺跡についてコメントしたい。三宅御土居保存問題以降、関係遺跡の調査が進められてきた。その最大の成果が前記の三遺跡である。保存問題以前は、乙吉船着場遺跡の近くまで海が入り込んでいたという、貞応二年石見国惣田数注文の長野庄最大の所領吉田郷の存在を無視した説が自然環境の研究者から出されていた(『中世今市船着場跡文化財調査報告書』、2000年)。「通説」のように思われていたが、根拠はなく明らかに間違った説であった。「通説」では②③遺跡の場所は古益田湖の中に含まれている。
 三遺跡はその位置と益田川ならびに高津川支流との関係から、①は益田庄、②③は長野庄内吉田郷に属していたと思われる。概報にあるように、高津川支流には「前川」と「新川」があり、寛政八年には両川とも川としての機能が失われていた。空中写真と元和の国絵図、ならびに益田市防災ハザードマップをみると、概報で新川とされる流路の規模は小さく、その北側により規模の大きい流路④があったように読み取れる。①は前川との合流地点の益田川東岸に位置し、新川と④に挟まれた位置に②③がある。
 出土した遺物をみると、第Ⅰ期(一一世紀後半からの百年間)は①が中心で、②③の比重は低い。第Ⅱ期(一二世紀後半からの百年間)になると②の比重が高まるが③は依然として低い。これが第Ⅲ期(一三世紀後半からの百年間)になると、①の比重が一気に低下し、②が中心となっている。ただし①②③の合計遺物数は第Ⅱ期の半分でしかない。第Ⅳ期(一四世紀後半以降の百年間)になると③が②と肩を並べるほど発展し、①の比重は低下したままであるが、合計遺物数はⅡ期の水準を回復している。Ⅴ期(一五世紀後半以降の百年間)には②が発展したのに対して③は低下し、合計遺物数は最多となっている。Ⅵ期(一六世紀中頃以降の五〇年間)②③ともに減少しているが、対象期間の長さが半分であることを換算すると、②は現状維持、③は大幅に低下したとなる。①はⅢ期以降は現状維持が続いている。
 上記の変化の要因の一端をみると、Ⅱ期に長野庄と益田庄が立券・寄進されている。②③が位置する吉田郷は一一三〇年頃の長野庄の第一次寄進には含まれなかったが、一一五〇年頃の第二次寄進で長野庄となり、中央との関係が深まった。Ⅲ期は益田氏惣領が益田本郷地頭職を没収され、北条氏関係者(ヵ)の所領となった時期であるが、吉田郷には変化がなかった。Ⅳ期には益田庄だけでなく吉田郷を含む長野庄の大部分が益田氏の支配下に入った。これにより③が急速に発展した(これに新川の存在も関係するか)。V期には日本海水運や大陸との交易が発展したが、③は衰退し、②が急速に発展した。両者は隣接しており、自然災害がその背景にあったのではないか。ハザードマップによると高津川の洪水の際は、②よりも③の地域が影響を受けやすい。Ⅵ期は大内氏、毛利氏の盛衰との関係で、石西地域は合戦の舞台となることが多かった。
 上記のデータは三遺跡のみのものであり、隣接する高津などのデータが加われば、益田地域全体の状況が変化することもありうる。そういった限界がある分析である。また、一三世紀後半に益田本郷を没収されていた益田氏惣領以上に、三隅氏や高津氏が鎌倉幕府打倒に積極的に参画しており、益田本郷以外の領主にも北条氏等による圧迫が及んでいた可能性がある。

 

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