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2020年4月 4日 (土)

常陸親王令旨2

 花園宮の活動は暦応三年(一三四〇)正月二八日堅田(佐伯)経貞軍忠状(佐伯杏庵蔵文書)により。新田綿打入道とともに土佐大高坂城の救援にあたっていることがわかる。次いで康永元年(一三四二)九月二六日同軍忠状(蠧簡集拾遺)により、金沢殿、綿内殿とともに土佐岡本城を攻めているが、その後の状況は不明である。一方、護良親王の子で後醍醐の猶子となった興良親王は、興国二年(一三四一)夏に常陸国に入ったことが確認でき、両者が別人であるが確認できる。興良は康永二年一一月一一日に常陸国の南朝方の拠点関・大宝城が落城したことで、常陸国を脱出し、駿河国での逗留を経て正平三年正月には「宮将軍」として和泉国での活動が確認できるが、その直前の正月五日の四條畷の戦いで楠木氏をはじめとする南朝方は壊滅的打撃を受けたことに伴う体制立て直しはうまくいかなかった。
 その後、正平五年二月二六日と正平六年三月八日には兵部卿親王令旨が忽那氏(忽那家文書)に宛てて出されているが、その奏者は「右少将」である。次いで正平六年八月一三日(内田家文書)と九月二三日(小早川家証文)の宮将軍令旨が残されている。その奏者も「右少将」であり、同時期の常陸親王令旨の奏者「右兵衛佐」とは異なっている。ここからすると、兵部卿親王と宮将軍は同一人物であるが、常陸親王とは別人とせざるを得ない。一方、土佐から周防へ移ってきた満良が「常陸親王」と呼ばれるのは根拠がないとの説に理があるのも確かである。常陸親王の御使の一人「一宮源蔵人大夫入道」には「遠江国」との注記があり、駿河国に逗留した興良との関係がうかがわれる。それらを踏まえると花園宮と呼ばれた満良が「兵部卿親王」令旨と「宮将軍」令旨の発給者であり、常陸親王は過去に常陸国で活動していた興良であろう。興良は父護良にちなみ「故兵部卿親王」と呼ばれたが、「兵部卿親王」は満良=花園宮である。満良は正平七年の京都占領に参加し、その子とされる石見宮とともに戦死した可能性が高い。そのため、「兵部卿親王」令旨と「宮将軍」令旨が正平七年以降みえない。花園宮→兵部卿親王→宮将軍(満良)であり、故兵部卿親王→宮将軍→常陸親王(興良)である。

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