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2020年4月22日 (水)

田頼郷地頭大島氏

 文永八年(一二七一)の能義郡田頼郷地頭大島弥二郎子については、出雲国内の関連史料を欠いているが、文永七年九月一五日沙弥乙啓挙状(肥前来島文書、鎌遺10693)によると、肥前国御家人大島次郎通綱子息次郎通清と舎弟地蔵丸が同国松浦郡宇野御厨内大嶋地頭職と検非違〔使欠ヵ〕・河海夫等本司職を、父譲状に任せて安堵御下文を給わらんことを申請し、それを肥前守護の関係者と思われる沙弥乙啓が鎮西奉行人兼肥前守護である武藤資能に取り次いでいる。正応六年には大島弥二郎大江通継が鎌倉での平禅門の乱の報を受けて鎮西探題のもとに着到状を提出している。これらから、大島氏は大江姓で惣領は「二郎」を仮名としていた事が分かる。後に大島氏は松浦党の構成員とみなされているが、その初見は暦仁二年に比定される京都大番役覆勘状である。
 「大江姓」である大島氏は頼朝が鎮西奉行として送り込んだ武藤(少弐)氏や島津氏・大友氏と同様、肥前国の在来の武士ではないであろう。石見国の地頭であった大江能行も大江広元と同様、京下りの一族に属するとされる。鎌倉初期に入部したが故に早くから大島氏を名乗っている。また、東国御家人の出身ではないため「肥前国御家人」と称している。文永八年の田頼郷地頭大島二郎子と大島次郎通綱の子通清は同一人物であろう。大江氏が田頼郷地頭に補任された時期も鎌倉初期であろう。
 大江姓大島氏は「通」を通字としているが、近江国香庄相伝系図には大江通国-通盛-通光がみえ、通光は保元三年八月二日に女子尼尊妙に香庄を譲っている。通国については大蔵大輔/大学頭に補任され、従四位上に叙せられたことが確認され、通国の猶子となった景遠(藤原姓から大江姓に改める)の子長門江太景国(大江氏で長門国内の地頭に補任されていた)が建久三年(一一九二)四月一一日には頼朝の庶子で仁和寺に入寺した貞暁の乳母夫になっている(『吾妻鏡』)。景国は貞暁が生まれると頼朝から扶持を命ぜられていたが、それが政子の知るところとなり貞暁とともに隠居していた。貞暁が七才になったので乳母を御家人に依頼したが、皆固辞したため、景国に決まった。通国の孫通光以降の男子については系図を欠き不明であるが、大島氏もこの大江氏の流れに属するのではないか。その末裔が京下りの役人として頼朝に仕え、肥前国大島地頭職や出雲国田頼郷地頭職を得、中心所領である大島を苗字としたと思われる。その他大江姓の有力御家人としては、承久の乱後に但馬守護となった太田氏もいる。

 

 

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