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2020年4月18日 (土)

美多実氏の東流説3

 次いで氏は明徳三年以降、「出東郡」が古文書にみえることを確認している。氏はこれを山名満幸による明徳の乱を鎮圧した新守護京極氏が、郡村支配のため新たに使い始めたものとの仮説を提示している。ただし、これは氏が批判する風土記と近世を一直線につなげるものと同じ発想である。出雲国内の郡については一〇世紀前半の『延喜式』までは確認できるが、それ以降は郡名を記した史料はほとんどみられない。同書の神名帳では、能義郡の神社は一ヶ所記すのみで、それ以外は意宇郡内の神社として記されている。この時期に能義郡が意宇郡から分離されたことによる混乱ではないかとの解釈がある。一方、古代律令制下の郡は平安中期には形骸化し、郡衙も消滅するとされる。この点については本ブロクでも「中世における郡について」で述べている。補足をすると、鎌倉期のものが残っている大田文では郡毎に所領が記されている。康治二年八月一九日の太政官符には鳥羽院の御願寺安楽寿院の庄園に対する官使・検非違使使・院宮諸司国使等の乱入と国役賦課が停止され、各庄園の四至が記され、その中には郡名がみえる。出雲国佐陀社は秋鹿郡恵積郷と島根郡西条生馬郷内の地が寄進されたものであった。
  出東郡という名称の成立についても、井上寛司氏の説を再検討し、律令制下の出雲郡出雲郷に対して、平安末期には国衙に隣接する地が出雲郷にされたことに伴う変更(出西郷の成立の背景でもある)であるとの説を示した。ということで美多氏の出東郡(その名の起源を含む)成立に関する説は実態を踏まえたものではない。
 美多氏は「『記紀』出雲神話に見えたる古代出雲小国家」(同書第二部第一章)の中で、出雲国における地震とそれに伴う影響について、史料を示して言及している。その中に、天正三年の地震に伴う地盤変動に関係するものとして、天正三年七月と八月に毛利輝元と吉川元春が日御崎社に「社領勘落」に対応する事を伝えた書状をあげているが、勘落は本来の所領が支配されていない事を述べたもので、これにより大地震があった根拠とすることはできない。一方、天正元年には斐伊川の洪水があった事は史料に基づき確認された事実である。直接的なものではないが、『大社町史』史料編古代中世2をみると、前後の年と比べて天正元年(元亀四年)の史料が極端に少ないことがわかる。洪水への対応に関して書状が出されたはずであるが、後に自らの権利を証明する根拠としての価値が低いため、廃棄されてしまったと考えられる。以上、美多氏の説に関連して確認した。できるだけ一次史料に基づき解釈するという方法は大変高く評価され、且つ中世段階で斐伊川が東流していたとの説は正しいが、当時の出雲国中世史研究のレベルが低かったため、美多氏がこれを活用しようとすると、自ら中世史全般を論ずる外なかったというのが実情であった。

 

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