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2020年4月18日 (土)

美多実氏の東流説2

 その著作の中で斐伊川問題について最も詳細に述べられたのは「「出雲」を何故「シュットウ」と読むか」(『斐川町誌調査報告』第二集、一九六六年)である。氏の立場はそれまでの研究が八世紀半ばの風土記と近世や近代を一直線に結びつけているとするもので、至極まっとうである。そのため、中世の史料に基づき、実態を究明しようとされている。ただし、当時の中世史研究のレベルは大正年間の『島根県史』の域を脱して居らず、独自に解明する必要があったが、史料の活字化も進んでおらず、大変な困難があった。『新修島根県史』史料編の刊行も一九六六年であり、且つそこに収録された史料は一部にとどまっていた。
 氏は一六世紀半ば以降の古文書で、現在の斐伊川東岸の出雲大社領が神門郡とされていることを確認され、次いで町誌編纂で発見された佐藤家文書(斐川町北島、県立図書館に写真あり)の天保二年頃の資料に注目された。そこには近世前半に出雲郡四ヶ村が楯縫郡に変更されたことと、神門郡一一ヶ村が出雲郡に編入されたことが述べられている。ともに川違によるもので、それまでは斐伊川が出雲・楯縫・神門三郡の境であったのが、四ヶ村は斐伊川を挟んで出雲郡の対岸となり、一一ヶ村は神門郡の対岸となったため所属が変更された。問題はその時期であるが、『雲陽大数録』に基づき、万治元年に神門郡一一ヶ村が出雲郡に変更されたとした。同書には同年に四ヶ村を含む出雲郡一一ヶ村が楯縫郡に変更されたことも記している。そしてその背景を、寛永年間の洪水をうけて同一八年に開始され、明暦三年に完了した斐伊川の大改修(川違)だとした。ただし出雲郡四ヶ村に含まれた西代村は寛永三年には出東郡に属したが、正保四年には楯縫郡に属すことが検地帳により確認できる。慶長一六年には出東郡であった林木村に対して、慶安元年には東林木村が楯縫郡に変更されていることがわかる。一方、四ヶ村でも美談村は正保四年の時点でも出東郡である。出雲郡から楯縫郡への変更は洪水による川違によるものとそれ以降のものに分かれる。また、神門郡から出雲郡への変更は、寛永期ではなく戦国期における川違で出雲大社領が斐伊川によって分断されたことに伴い、川の東岸となったにもかかわらず神門郡の所属としたが、やはり実態に合わずに不自然だということで、出雲郡に戻したものであろう。

 

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