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2020年4月22日 (水)

石見左衛門尉跡について1

 以前、建治元年(一二七五)六条八幡宮造営注文について述べた際に、海老名尚・福田豊彦氏の史料紹介(歴博研究報告45)の比定を追認する形で「石見左衛門尉跡」を武藤資能とした。その際、資能の母が石見守となった大江能行の娘であったことがその背景にあったとした。資能が「能」を付けているが、一方でその生年は建久九年(一一九八)で、弘長三年(一二六三)に死亡した能行が資能よりも一世代上とすると死亡時には八〇才代後半となってしまう。資能は八四才で死亡しており、可能性はゼロではないが、能行の姉妹が資能の母であろうか。
 その当否は今後の課題として、正しいとした場合でも、建治元年時点で資能ないしはその子を「石見左衛門尉跡」と呼ぶのは不自然である。資能の父資頼は寛喜四年二月二四日には「武藤左衛門尉資頼」とみえるが、鎮西奉行人を辞して子資能に譲った貞永(歴博45では「貞応」とあるが誤り)元年八月一三日時点では「筑後前司資頼入道」であった。資能も文永四年九月一九日六波羅御教書(深掘家文書)には宛所として「太宰少弐入道」とみえる。なにより、当時の九州はモンゴルによる再来に備えており、その中心であった武藤氏に造営役を負担させることはあり得ない。
 という事で、「石見左衛門尉跡」とは大江能行子の跡であろう。能行は嘉禎四年四月一六日には上洛していた将軍頼経が賀茂祭を見物した際の随行者として「御家人廷尉能行」とみえ、仁治二年(一二四二)八月二五日の新造北斗堂供養への将軍参堂の際には「江石見前司能行」とみえる。建長二年三月一日の閑院内裏注文の「石見前司」が大江能行であることは確実である。弘長三年一〇月一〇日の死亡記事には「正五位下行石見守大江朝臣能行」とみえる。能行の子が石見左衛門尉と呼ばれたと考えられる。鎮西奉行人武藤資能ではない。

 

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