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2020年4月19日 (日)

北島村佐藤家文書

 美多氏が利用した佐藤家文書については、県立図書館が写真を撮影し、紙焼・製本したものを過去に利用していた。今回、検索する中で万治四年の検地帳が含まれていることを知り、閲覧したところであった。広大所蔵検地帳に万治二年の千家村分は含まれており、両者の比較が可能となった。斐伊川の流路変更により、中世の両村の領域も万治年間とは同一ではなかろうが、北島村がより斐伊川に近く、北側に位置している。北島村の南、千家村の西には神立村があり、両村と同程度の面積であるが、文永八年の神立村は田数未記載である。面積が狭かった、すべて畠地であったとの仮説も可能だが、一方では北条時宗領(地頭)となっており、重要な所領であった。神魂社領大庭田尻保は結番注文から除かれているが、それに近い扱いを受けたのであろうか。あるいは近世の神立村の領域は中世の大社領求院村の領域が含まれているのであろうか。北島村は康元元年(一二五六)の田数が一二町弱、千家村は一一町五反である。一方、万治四年の北島村社家分の田数は二一町余(上田以上18%、二三八石、蔵入分は不明)、千家村社家分は二〇町五反余(上田以上15%、石高は不明、これ以外に蔵入=藩分検地帳あり)である。共に一定程度の字が記され、洪水で環境が一変(川違)という状況の後とは思われない。
 石高では、寛永一五年の北島村が五三五石、千家村が四一〇石、寛文四年の石高は北島村六四二石、千家村四九二石、神立村五八九石(寛永一五年は不明)である。近世村落としては北島村の方がやや環境に恵まれていたのだろう。両村の東に隣接する富村(北分が北島国造分、西分が千家国造分とされ、蔵入分は数%のみ)の上田以上の比率は不明であるが、その東隣の上直江村(万治二年)は3%、下直江村(同年)は20%である。両村の北東にあり、北の境が坂田村(斐伊川沿)である三分市村の万治二年の上田以上の比率は15%弱である。上直江村の低さが目立つが、当時の川の流路などが関係しているのだろう。

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