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2020年4月

2020年4月29日 (水)

別符(府)氏と西条氏

 文永八年に能義郡内中須郷(別府左衛門妻)と真松保・利弘庄(西條余一入道)の地頭としてみえる両氏は武蔵国最北端(現熊谷市)の幡羅郡別符郷と西條(西城)を名字の地とする武蔵国御家人である。この点についてはHP「成田氏と別符氏」により正確な場所を知ることができた。別符氏は意宇郡来海庄の地頭でもあるが、その同族で東隣の埼玉郡成田郷を苗字の地とする成田氏も能義郡坂田郷と意宇郡宍道郷の地頭であった。
 以前、関東の研究者から西條氏に関係する1)文永八年八月二五日関東下知状のコピー(「埼玉地方史」創刊号)をいただき、ワープロに入力し、関係者にメールの添付ファイルで送ったことがあったが、そのファイルが見つからないので、コピーを捜してなんとか発見したところ、埼玉県川越市光西寺の文書であった。文書は『新編埼玉県史』にも収録されていたが、同寺所蔵の2)寛元元年六月二三日将軍家政所下文は別符氏関係文書であった。
 別符氏は鎌倉初期に東別符を譲られた太郎能行の一流と西別府を譲られた次郎行助の一流に分かれ(所領は平等に譲られた)、その後しばらくは北条氏との関係を強めた西別符氏が有力であったが(建長二年の閑院内裏造営役注文には、来海庄と中須郷の地頭である「別府左衛門(別符満資)」と「別府左衛門跡」のみみえる。と建治元年六条八幡宮造営役注文には別符左衛門尉跡=西別符氏が五貫文、別符刑部丞跡=東別符氏が三貫文である)幕府の滅亡と相前後して没落し、東別符氏が史料を残している。3)元久元年一二月一八日関東下知状(集古文書)と4)安貞二年七月二三日関東御教書(保阪潤治氏所蔵文書)は両氏の所領をめぐる裁判に関するもので、西別符氏の主張を退け、東別符氏の勝訴としたもので、東別符氏が残したものである(後に流出)。
 出雲国に所領を得たのは西別符氏であり、来海庄内に弘長寺を建立しているが、西別符氏の没落後は成田氏が来海庄を得る一方で、成田氏内部でも本来の惣領家が没落し、安保信員と成田家資の娘との間に生まれた時員の子孫が成田郷を得て、成田氏を称している。この点については、『出雲塩冶誌』(2007)の中で述べたことがある。そこでは『宍道町史』が弘長寺の開基者藤原満資を成田氏としていたのを、別符氏と修正したが、HP「成田氏と別符氏」の中でも、『宍道町史』の見解を主観的なものと批判し、『松江市史』が別符氏に変更した理由がわからないとしているが、『出雲塩冶誌』に基づくものである。

2020年4月24日 (金)

北野末社と生馬郷の地頭

 島根郡内でも文永八年の北野末社地頭「香木三郎入道」と生馬郷地頭「栗沢左衛門尉」については、関連史料がなく、その出自は不明としていた。今回編纂所「日本古文書ユニオンカタログ」で検索をすると、嘉禎四年七月一〇日将軍政所下文がヒットし、安堵された宛所に「源(香木)助経」と記されていた。福岡市の筑前麻生文書に残っているが、「麻生」とは問題発言しかしない御仁の実家であろうか。それはさておいて『鎌倉遺文』と『福岡市史』を確認したが、そこに掲載された関連文書から源助経を「香木」氏に比定した根拠は得られなかった。安堵された所領は「香月郷」であり、後に香月氏を名乗っており、たまにある編纂所データベースの「誤植」と分かり、落胆した。中世の香木氏の関連文書は文永八年結番帳のみである。
 気を取り直して地名としての「香木」を捜してみた。検索してヒットするのは静岡県静岡市(駿河国)北端にある「香木穴」のみであった。「香木」では素材しかヒットしないので、出雲国に入部した東国御家人の出身国毎に検索した結果である。歴史民俗博物館の「日本荘園」データベースでも該当なしである。当て字の場合もあるので「柿」で調べると、近江国に「柿御園」があり、『阿波三木家文書』には正元二年正月一一日に「柿平四郎大夫守貞」に所領を宛行う文書があるが、東国御家人レベルのものではなさそうである。とりあえず「嘉木村」が新潟市内に存在するので、こちらの方が脈がある気がする。三刀屋氏は越後国佐味庄の出身であった。
 同じく栗沢氏については、貞和二年五月日得江九郎頼員軍忠状(得江文書)に、越中国凶徒井上宮内権少輔俊清、新田式部権少輔貞員、栗沢弾正忠政景らが能登国に入り、富来院内木尾嶽に楯籠ったことがみえる。富山県の栗沢はヒットしないが、越後国(上越市板倉区)に富沢村が存在したことが確認できる。戦国期には信濃国内に「栗沢藤兵衛」の存在が確認できる(ユニオンカタログデータベース)。
 ということで、栗沢氏は越後国出身の可能性が高く(50%以上)、香木氏は越後国以外の関係する可能性のある情報はない(可能性50%未満)。

石見左衛門尉跡について2

 肝心な事を失念していたが、では石見左衛門尉跡の所領とはどこかという事である。その負担した一六貫文は西国御家人としては最多のものである。在京御家人でも小早川美作入道(茂平、比定は歴博45)跡と遠山大蔵権少輔(景朝)跡の一五貫文が最高である。六波羅探題とそれに次ぐ勢力を持った長井泰重については、「鎌倉中」の中で一門中に寄合して記されている。探題北方(南方は二月騒動で時輔が討たれ不在)北条義宗は「武蔵守」(連署北条義政)中の「武蔵入道(義政の兄で前執権長時=義宗の父)跡」に、長井泰重は「長井左衛門大夫入道(兄で前評定衆である泰秀)跡」に含まれている。六波羅評定衆であった出雲守護佐々木泰清は出雲国が杵築大社造営中で免除されたと思われる。石見国も基本的にはモンゴル襲来への対応で免除であろう。そうした中で石見左衛門尉跡は大江能行が武家ではなく公家出身であったこと、建長二年の内裏造営役を務めていたことにより、役が課されたと思われる。
 建長二年三月に石見前司(大江能行)が負担したのは裏築地一九二本中の一本と多くはない。これに対して「益田権介跡」(三隅、福屋、周布氏など一族を合わせたものであろう)は三本負担している。六条八幡の場合、周防国で最多なのは「大内介」(建長二年にはみえず)の一〇貫文である。長門国がみえないのは、これも対モンゴル役のためであろう。建長二年に比べて建治元年の大江氏領が増加したことがうかがわれる。
 一方、益田氏惣領兼胤が女捕により所領を没収されたのは周知の通りである。阿忍が文永一〇年(一二七三)亡夫兼長領の配分を受けているが、これは兼長に続いて弟兼久も早世した後の益田氏領配分の結果であった。その直後に惣領兼胤による女捕事件が起き、その所領のかなりの部分が石見左衛門尉跡に与えられた結果だと思われる。当然、その中に益田庄益田本郷も含まれていたであろう。三〇年弱前、「益田氏惣領制の再検討」を島根県中世史研究会で報告した際には、益田本郷は北条氏領になったとの見通しを示したが、その後、永徳三年八月一〇日益田祥兼置文で、「祥兼所領者守護不入地也」とし、その根拠として「元亨御下知」を挙げていたことから、益田本郷が守護不入地とされた以上は、守護とは別人の所領であったことを述べた。守護と益田本郷地頭が北条氏ではあっても別人との可能性は残るが、北条氏領ならもっと早い時期に不入とされたはずである。
 以上の点から、仮説の積み重ねではあるが、益田兼胤が没収された所領の多くは「石見左衛門尉跡」に与えられたとの説を提起したい。

 

2020年4月22日 (水)

田頼郷地頭大島氏

 文永八年(一二七一)の能義郡田頼郷地頭大島弥二郎子については、出雲国内の関連史料を欠いているが、文永七年九月一五日沙弥乙啓挙状(肥前来島文書、鎌遺10693)によると、肥前国御家人大島次郎通綱子息次郎通清と舎弟地蔵丸が同国松浦郡宇野御厨内大嶋地頭職と検非違〔使欠ヵ〕・河海夫等本司職を、父譲状に任せて安堵御下文を給わらんことを申請し、それを肥前守護の関係者と思われる沙弥乙啓が鎮西奉行人兼肥前守護である武藤資能に取り次いでいる。正応六年には大島弥二郎大江通継が鎌倉での平禅門の乱の報を受けて鎮西探題のもとに着到状を提出している。これらから、大島氏は大江姓で惣領は「二郎」を仮名としていた事が分かる。後に大島氏は松浦党の構成員とみなされているが、その初見は暦仁二年に比定される京都大番役覆勘状である。
 「大江姓」である大島氏は頼朝が鎮西奉行として送り込んだ武藤(少弐)氏や島津氏・大友氏と同様、肥前国の在来の武士ではないであろう。石見国の地頭であった大江能行も大江広元と同様、京下りの一族に属するとされる。鎌倉初期に入部したが故に早くから大島氏を名乗っている。また、東国御家人の出身ではないため「肥前国御家人」と称している。文永八年の田頼郷地頭大島二郎子と大島次郎通綱の子通清は同一人物であろう。大江氏が田頼郷地頭に補任された時期も鎌倉初期であろう。
 大江姓大島氏は「通」を通字としているが、近江国香庄相伝系図には大江通国-通盛-通光がみえ、通光は保元三年八月二日に女子尼尊妙に香庄を譲っている。通国については大蔵大輔/大学頭に補任され、従四位上に叙せられたことが確認され、通国の猶子となった景遠(藤原姓から大江姓に改める)の子長門江太景国(大江氏で長門国内の地頭に補任されていた)が建久三年(一一九二)四月一一日には頼朝の庶子で仁和寺に入寺した貞暁の乳母夫になっている(『吾妻鏡』)。景国は貞暁が生まれると頼朝から扶持を命ぜられていたが、それが政子の知るところとなり貞暁とともに隠居していた。貞暁が七才になったので乳母を御家人に依頼したが、皆固辞したため、景国に決まった。通国の孫通光以降の男子については系図を欠き不明であるが、大島氏もこの大江氏の流れに属するのではないか。その末裔が京下りの役人として頼朝に仕え、肥前国大島地頭職や出雲国田頼郷地頭職を得、中心所領である大島を苗字としたと思われる。その他大江姓の有力御家人としては、承久の乱後に但馬守護となった太田氏もいる。

 

 

石見左衛門尉跡について1

 以前、建治元年(一二七五)六条八幡宮造営注文について述べた際に、海老名尚・福田豊彦氏の史料紹介(歴博研究報告45)の比定を追認する形で「石見左衛門尉跡」を武藤資能とした。その際、資能の母が石見守となった大江能行の娘であったことがその背景にあったとした。資能が「能」を付けているが、一方でその生年は建久九年(一一九八)で、弘長三年(一二六三)に死亡した能行が資能よりも一世代上とすると死亡時には八〇才代後半となってしまう。資能は八四才で死亡しており、可能性はゼロではないが、能行の姉妹が資能の母であろうか。
 その当否は今後の課題として、正しいとした場合でも、建治元年時点で資能ないしはその子を「石見左衛門尉跡」と呼ぶのは不自然である。資能の父資頼は寛喜四年二月二四日には「武藤左衛門尉資頼」とみえるが、鎮西奉行人を辞して子資能に譲った貞永(歴博45では「貞応」とあるが誤り)元年八月一三日時点では「筑後前司資頼入道」であった。資能も文永四年九月一九日六波羅御教書(深掘家文書)には宛所として「太宰少弐入道」とみえる。なにより、当時の九州はモンゴルによる再来に備えており、その中心であった武藤氏に造営役を負担させることはあり得ない。
 という事で、「石見左衛門尉跡」とは大江能行子の跡であろう。能行は嘉禎四年四月一六日には上洛していた将軍頼経が賀茂祭を見物した際の随行者として「御家人廷尉能行」とみえ、仁治二年(一二四二)八月二五日の新造北斗堂供養への将軍参堂の際には「江石見前司能行」とみえる。建長二年三月一日の閑院内裏注文の「石見前司」が大江能行であることは確実である。弘長三年一〇月一〇日の死亡記事には「正五位下行石見守大江朝臣能行」とみえる。能行の子が石見左衛門尉と呼ばれたと考えられる。鎮西奉行人武藤資能ではない。

 

2020年4月21日 (火)

斐伊川の流路と鉄穴流し

 詳細を自分自身で検討していないが、松江藩による斐伊川上流での鉄穴流し制限の第一弾は慶長一五年(一六一〇)から寛永一三年(一六三六)までだとされている。制限の原因は前述の慶長一四年の洪水であろう。斐伊川流域の豪雨による洪水と、出雲平野北部の豪雨による洪水の二つが考えられる。問題は寛永一三年に制限が解除された方で、寛永年間の洪水は『旧島根県史』の説く寛永一六年ではなく、一〇年と一二年に実際に発生したと考えられる。一〇年の方が大規模で、その治水対策中の一二年に再度の洪水が発生したが、一〇年ほどではなく、さらに治水工事を行ったので解禁したのであろうか。正直なところよくわからない。
 戦国期以降の洪水とそれに伴う流路変更としては、やはり永正七年(一五一〇)に「神門郡杵築大社領内」とみえるので、それ以前、仮に一五〇〇年頃にあったとしておく(文明四年=一四七二に神門郡日御崎検校とあり、それ以前であった)が、それまでは西岸の武志郷-稲岡郷-高浜郷と栃島村-荻原村-高岡村の間を流れる本流と、東岸の北島村の北から北東方向に流れる流れが中心であったが、本流は埋まり、北進する流れに変わった。ただし現在のルートより西側に入り込み、「川跡」を通り、その北で東に向きを変えていた。この流路変更により、出雲大社・日御崎社とその所領は所属が出東郡から神門郡に変わった。尼子氏による原手三郡(神門郡・出東郡・大原郡)の設定は、この変化に対応するものであった。
 この変化を「大津龍王神社古今神秘集」では「依之出雲郡半余ニ割神門郡ニ編入シ旧高六万余ノ大郡トナリ、故ニ田畠共ニ増殖セル」と記した。ただし時期は天正元年ではなく、一五〇〇年頃(一五世紀中頃)であった(永正元年の誤りなら一五〇一となるが、このあたりは判断不能)。天正元年の洪水時に大社の庄官中溝三郎五郎が人夫を連れて大津から平田までの川除修理を行ったのは、それ以前に北進していた本流の洪水による。遙堪郷(村)阿須伎社蔵の「天日隅宮末社傳」に記す社殿流出は、豪雨により北山山系から土石流が発生したためであろう。一方で斐伊川流域でも洪水が発生していたため、翌年に松江藩が斐伊川上流での鉄穴流しの制限を行った。
 これに対して解禁の寛永一三年という年号は、現存する「寛永一三年出雲国十二郡図」の年号と符合している。ただし、この絵図は前後の寛永一〇年と一五年の絵図との間に違いがあり、単純に寛永一〇年図→一三年図→一五年図とはならない。一〇年図は寛永年間の洪水以前の状況を記し、一五年図は洪水後を記しているとまでは言えるのだが。寛永一三年の鉄穴流し解禁に関連して、実際はしばらく後に記憶に基づき作成したものであろうかとの仮説を立てることはできるが‥‥。歴史資料としての精度はやや落ち、前後の絵図と同様に扱うのは注意が必要である。この絵図と同内容の「寛永十三年簸川平野の図 松江の住人狩野重右兵衛尉為信作」が美多氏の論文にも掲載されており、古くからその内容が周知されていた。一方、一〇年図と一三年・一五年図の違いとして、前者では北進する本流は一本であるが、後者では本流に並行して北進するもう一つの流れ(宝永七年絵図では消滅し一本化)が描かれ、「武志」が分断された形になっている。また、一三年図のみ、斐伊川本流と西流して日本海へ流れる流路が連続しているが、他の地図では連続していない。連続していたのは一五〇〇年頃の洪水前の情報が混入したためと考えられる。

 

2020年4月20日 (月)

女捕による所領没収

 益田惣領兼胤がその所領を没収される前提として、その妻千手の父益田兼長とともに、弟である兼久(兼胤の父)も早世したことが考えられるとの説を示した。それとともに、益田兼胤が後に妻となる千手に対する女捕を行ったことが、所領没収の原因となることを証明しなければならない。
 女捕とは、道路で行われる犯罪である路次狼藉の一つで、沙汰未練書には、検断沙汰の対象として、路次狼藉(人の物を奪い取ること)に続いて「追落」(人を追いかける)「女捕」(女性が道を通行しているときに、その女性を追いかけて誘拐してしまうこと)を上げている。( )内は保立道久氏「大袋と袋持」(保立道久の研究雑記)から引用した。その具体例として、仁治二年(一二四一)五月六日に本庄四郎左衛門尉時家の所帯を召し放つ決定がなされている(『吾妻鏡』)。小林次郎時景の訴えを受けたもので、時景の所従藤平太の妻女が路次を通っていた際に、時家が馬二疋を押し取り、馬の口付をしていた小次郎男を搦め取った事が、路次狼藉と認定されたためである。兼胤による千手への「女捕」もこの事例に類似していたと思われる。千手に付きそっていた関係者(男女両方あろう)とその乗物への狼藉を行った上で、千手を拉致したのであろう。
 これが犯罪と認定され、兼胤の身は「召人」として三浦介に預けられ、父兼久から伝領した所領を没収されたのである。ただし、母(兼久の妻)の所領や阿忍とその娘千手の所領は没収の対象外であった。西田氏が兼胤が所領を没収されたとの「龍雲寺三隅氏系図」の記述を考察から除外されたのは、兼胤が所領を譲られていたことと、女捕により所領が没収されるのかという二つのハードルがあったためであろうが、益田氏領が没収され他氏に与えられたことは疑う余地のない説(これを前提としなければその後の事態は理解不能となる)である。以上、三隅氏系図の記述を抜きに鎌倉時代の益田氏の動向は理解できないことを述べた。
  なお、路次狼藉と女捕については、野村育世氏「辻捕の風景』(『家族史としての女院論』所収)と櫻井彦氏「路次狼藉の成立」(『悪党と地域社会の研究』所収)を参照した。

 

2020年4月19日 (日)

北島村佐藤家文書

 美多氏が利用した佐藤家文書については、県立図書館が写真を撮影し、紙焼・製本したものを過去に利用していた。今回、検索する中で万治四年の検地帳が含まれていることを知り、閲覧したところであった。広大所蔵検地帳に万治二年の千家村分は含まれており、両者の比較が可能となった。斐伊川の流路変更により、中世の両村の領域も万治年間とは同一ではなかろうが、北島村がより斐伊川に近く、北側に位置している。北島村の南、千家村の西には神立村があり、両村と同程度の面積であるが、文永八年の神立村は田数未記載である。面積が狭かった、すべて畠地であったとの仮説も可能だが、一方では北条時宗領(地頭)となっており、重要な所領であった。神魂社領大庭田尻保は結番注文から除かれているが、それに近い扱いを受けたのであろうか。あるいは近世の神立村の領域は中世の大社領求院村の領域が含まれているのであろうか。北島村は康元元年(一二五六)の田数が一二町弱、千家村は一一町五反である。一方、万治四年の北島村社家分の田数は二一町余(上田以上18%、二三八石、蔵入分は不明)、千家村社家分は二〇町五反余(上田以上15%、石高は不明、これ以外に蔵入=藩分検地帳あり)である。共に一定程度の字が記され、洪水で環境が一変(川違)という状況の後とは思われない。
 石高では、寛永一五年の北島村が五三五石、千家村が四一〇石、寛文四年の石高は北島村六四二石、千家村四九二石、神立村五八九石(寛永一五年は不明)である。近世村落としては北島村の方がやや環境に恵まれていたのだろう。両村の東に隣接する富村(北分が北島国造分、西分が千家国造分とされ、蔵入分は数%のみ)の上田以上の比率は不明であるが、その東隣の上直江村(万治二年)は3%、下直江村(同年)は20%である。両村の北東にあり、北の境が坂田村(斐伊川沿)である三分市村の万治二年の上田以上の比率は15%弱である。上直江村の低さが目立つが、当時の川の流路などが関係しているのだろう。

2020年4月18日 (土)

美多実氏の東流説3

 次いで氏は明徳三年以降、「出東郡」が古文書にみえることを確認している。氏はこれを山名満幸による明徳の乱を鎮圧した新守護京極氏が、郡村支配のため新たに使い始めたものとの仮説を提示している。ただし、これは氏が批判する風土記と近世を一直線につなげるものと同じ発想である。出雲国内の郡については一〇世紀前半の『延喜式』までは確認できるが、それ以降は郡名を記した史料はほとんどみられない。同書の神名帳では、能義郡の神社は一ヶ所記すのみで、それ以外は意宇郡内の神社として記されている。この時期に能義郡が意宇郡から分離されたことによる混乱ではないかとの解釈がある。一方、古代律令制下の郡は平安中期には形骸化し、郡衙も消滅するとされる。この点については本ブロクでも「中世における郡について」で述べている。補足をすると、鎌倉期のものが残っている大田文では郡毎に所領が記されている。康治二年八月一九日の太政官符には鳥羽院の御願寺安楽寿院の庄園に対する官使・検非違使使・院宮諸司国使等の乱入と国役賦課が停止され、各庄園の四至が記され、その中には郡名がみえる。出雲国佐陀社は秋鹿郡恵積郷と島根郡西条生馬郷内の地が寄進されたものであった。
  出東郡という名称の成立についても、井上寛司氏の説を再検討し、律令制下の出雲郡出雲郷に対して、平安末期には国衙に隣接する地が出雲郷にされたことに伴う変更(出西郷の成立の背景でもある)であるとの説を示した。ということで美多氏の出東郡(その名の起源を含む)成立に関する説は実態を踏まえたものではない。
 美多氏は「『記紀』出雲神話に見えたる古代出雲小国家」(同書第二部第一章)の中で、出雲国における地震とそれに伴う影響について、史料を示して言及している。その中に、天正三年の地震に伴う地盤変動に関係するものとして、天正三年七月と八月に毛利輝元と吉川元春が日御崎社に「社領勘落」に対応する事を伝えた書状をあげているが、勘落は本来の所領が支配されていない事を述べたもので、これにより大地震があった根拠とすることはできない。一方、天正元年には斐伊川の洪水があった事は史料に基づき確認された事実である。直接的なものではないが、『大社町史』史料編古代中世2をみると、前後の年と比べて天正元年(元亀四年)の史料が極端に少ないことがわかる。洪水への対応に関して書状が出されたはずであるが、後に自らの権利を証明する根拠としての価値が低いため、廃棄されてしまったと考えられる。以上、美多氏の説に関連して確認した。できるだけ一次史料に基づき解釈するという方法は大変高く評価され、且つ中世段階で斐伊川が東流していたとの説は正しいが、当時の出雲国中世史研究のレベルが低かったため、美多氏がこれを活用しようとすると、自ら中世史全般を論ずる外なかったというのが実情であった。

 

美多実氏の東流説2

 その著作の中で斐伊川問題について最も詳細に述べられたのは「「出雲」を何故「シュットウ」と読むか」(『斐川町誌調査報告』第二集、一九六六年)である。氏の立場はそれまでの研究が八世紀半ばの風土記と近世や近代を一直線に結びつけているとするもので、至極まっとうである。そのため、中世の史料に基づき、実態を究明しようとされている。ただし、当時の中世史研究のレベルは大正年間の『島根県史』の域を脱して居らず、独自に解明する必要があったが、史料の活字化も進んでおらず、大変な困難があった。『新修島根県史』史料編の刊行も一九六六年であり、且つそこに収録された史料は一部にとどまっていた。
 氏は一六世紀半ば以降の古文書で、現在の斐伊川東岸の出雲大社領が神門郡とされていることを確認され、次いで町誌編纂で発見された佐藤家文書(斐川町北島、県立図書館に写真あり)の天保二年頃の資料に注目された。そこには近世前半に出雲郡四ヶ村が楯縫郡に変更されたことと、神門郡一一ヶ村が出雲郡に編入されたことが述べられている。ともに川違によるもので、それまでは斐伊川が出雲・楯縫・神門三郡の境であったのが、四ヶ村は斐伊川を挟んで出雲郡の対岸となり、一一ヶ村は神門郡の対岸となったため所属が変更された。問題はその時期であるが、『雲陽大数録』に基づき、万治元年に神門郡一一ヶ村が出雲郡に変更されたとした。同書には同年に四ヶ村を含む出雲郡一一ヶ村が楯縫郡に変更されたことも記している。そしてその背景を、寛永年間の洪水をうけて同一八年に開始され、明暦三年に完了した斐伊川の大改修(川違)だとした。ただし出雲郡四ヶ村に含まれた西代村は寛永三年には出東郡に属したが、正保四年には楯縫郡に属すことが検地帳により確認できる。慶長一六年には出東郡であった林木村に対して、慶安元年には東林木村が楯縫郡に変更されていることがわかる。一方、四ヶ村でも美談村は正保四年の時点でも出東郡である。出雲郡から楯縫郡への変更は洪水による川違によるものとそれ以降のものに分かれる。また、神門郡から出雲郡への変更は、寛永期ではなく戦国期における川違で出雲大社領が斐伊川によって分断されたことに伴い、川の東岸となったにもかかわらず神門郡の所属としたが、やはり実態に合わずに不自然だということで、出雲郡に戻したものであろう。

 

美多実氏の東流説1

 藤沢秀晴氏とともに、寛永末年以前から斐伊川の東流路が存在していたと説くのが美多実氏である。その説を全面的に展開された論は未完であるが、氏の遺稿をまとめた『風土記・斐伊川・大社』(古代文化論叢7、二〇〇一年)から、その説のポイントを確認したい。
 この本については題名以上には承知していなかったが、氏の斐伊川論についても確認しておく必要があった。現在はコロナウィルス問題で、松江市、出雲市の図書館は臨時閉館している。発行元に在庫がないか調べたが、在庫リスト一覧には本書は掲載されておらず、入手は困難である。そうした中、他の公立図書館を調べると、雲南市立図書館が開館中で、且つ、市内以外への貸し出しをしているとのことで、訪問した。雲南市は二〇〇四年一一月に大原郡と飯石郡の六ヶ町村が合併して誕生した自治体で、市立図書館は加茂、大東、木次の三館から構成される。それ以外の旧三町村は独立した館ではなく室があるのだろう。検索してもどの館が所蔵しているかは表記されないので、三館毎に検索すると、三館それぞれが所蔵していた。刊行時に県内の市町村全てに寄贈されたのだろう。貸し出しは三館とも可能だが、当該本については、加茂のみ可能で、木次と大東は禁帯出で館内での閲覧のみであった。ということで、加茂で貸し出しカードを作り、館外貸し出しをうけた。
 氏は「著書 斐伊川と出雲平野上巻-出雲平野の歴史地理的研究-」(『研究紀要』第一号、島根県高等学校教育研究連合会、一九六五年三月)の中で、その構想を開陳しているが、そこでは第一章に相当する「出雲平野の歴史地理学的研究序説-砂丘風成論批判として-」が述べられたのみであった。構想では古代から近世までの斐伊川と出雲平野について述べることになっていた。その後の展開と斐伊川史に関わる人物については下巻に収録予定とある。氏は本稿を収録した紀要発行時で満五二才で、八二才時の『風土記論叢』第三号(一九九三)所収論文が公開されたものでは最後となり、二年後に八四才で死亡された。その年譜をみると、二六才で東京帝大文学部東洋史学科を卒業した時点(一九三九)ですでに日中戦争が始まっており、三三才時の敗戦までは徴兵による軍人として生活を送っていた。その後、県内の高等学校に勤務し、三七才で僧侶となる傍らでその研究活動を続けられた。

2020年4月12日 (日)

中世益田調査概報

 国立歴史民俗博物館から概報vol3が公開されているので、今回は①沖手遺跡、②中須東原遺跡、③同西原遺跡についてコメントしたい。三宅御土居保存問題以降、関係遺跡の調査が進められてきた。その最大の成果が前記の三遺跡である。保存問題以前は、乙吉船着場遺跡の近くまで海が入り込んでいたという、貞応二年石見国惣田数注文の長野庄最大の所領吉田郷の存在を無視した説が自然環境の研究者から出されていた(『中世今市船着場跡文化財調査報告書』、2000年)。「通説」のように思われていたが、根拠はなく明らかに間違った説であった。「通説」では②③遺跡の場所は古益田湖の中に含まれている。
 三遺跡はその位置と益田川ならびに高津川支流との関係から、①は益田庄、②③は長野庄内吉田郷に属していたと思われる。概報にあるように、高津川支流には「前川」と「新川」があり、寛政八年には両川とも川としての機能が失われていた。空中写真と元和の国絵図、ならびに益田市防災ハザードマップをみると、概報で新川とされる流路の規模は小さく、その北側により規模の大きい流路④があったように読み取れる。①は前川との合流地点の益田川東岸に位置し、新川と④に挟まれた位置に②③がある。
 出土した遺物をみると、第Ⅰ期(一一世紀後半からの百年間)は①が中心で、②③の比重は低い。第Ⅱ期(一二世紀後半からの百年間)になると②の比重が高まるが③は依然として低い。これが第Ⅲ期(一三世紀後半からの百年間)になると、①の比重が一気に低下し、②が中心となっている。ただし①②③の合計遺物数は第Ⅱ期の半分でしかない。第Ⅳ期(一四世紀後半以降の百年間)になると③が②と肩を並べるほど発展し、①の比重は低下したままであるが、合計遺物数はⅡ期の水準を回復している。Ⅴ期(一五世紀後半以降の百年間)には②が発展したのに対して③は低下し、合計遺物数は最多となっている。Ⅵ期(一六世紀中頃以降の五〇年間)②③ともに減少しているが、対象期間の長さが半分であることを換算すると、②は現状維持、③は大幅に低下したとなる。①はⅢ期以降は現状維持が続いている。
 上記の変化の要因の一端をみると、Ⅱ期に長野庄と益田庄が立券・寄進されている。②③が位置する吉田郷は一一三〇年頃の長野庄の第一次寄進には含まれなかったが、一一五〇年頃の第二次寄進で長野庄となり、中央との関係が深まった。Ⅲ期は益田氏惣領が益田本郷地頭職を没収され、北条氏関係者(ヵ)の所領となった時期であるが、吉田郷には変化がなかった。Ⅳ期には益田庄だけでなく吉田郷を含む長野庄の大部分が益田氏の支配下に入った。これにより③が急速に発展した(これに新川の存在も関係するか)。V期には日本海水運や大陸との交易が発展したが、③は衰退し、②が急速に発展した。両者は隣接しており、自然災害がその背景にあったのではないか。ハザードマップによると高津川の洪水の際は、②よりも③の地域が影響を受けやすい。Ⅵ期は大内氏、毛利氏の盛衰との関係で、石西地域は合戦の舞台となることが多かった。
 上記のデータは三遺跡のみのものであり、隣接する高津などのデータが加われば、益田地域全体の状況が変化することもありうる。そういった限界がある分析である。また、一三世紀後半に益田本郷を没収されていた益田氏惣領以上に、三隅氏や高津氏が鎌倉幕府打倒に積極的に参画しており、益田本郷以外の領主にも北条氏等による圧迫が及んでいた可能性がある。

 

日野俊基と石見国2

 日野有隆とその子は後三条天皇の子輔仁親王の遺児で久安三年(一一四七)に四五才で死亡した源有仁に仕えていた。輔仁の母は源基平の娘基子であり、その同母弟行宗は、輔仁とその子有仁に仕えていた(康治二=一一四四年に八一才で死亡)。その行宗が養女としていた兵衛佐局(実父信縁は保延四=一一三八年に死亡)は保延六年に崇德院との間に第一皇子重仁を産んでいる。有隆の子が崇德院領長野庄の支配に関係した可能性は高い。益田氏の祖とされる国兼は、益田季宗の子であるが、嫡子は兄国季であり、国兼は益田庶子として長野庄の第二次立券に参加している(この参加者は石見守源国保とその父雅国にちなむ「国」をその名に付けている)。系図で国兼が日野有隆の子と記されたのはこうした背景によっている。
 その後の石見国と日野氏の関係を示すのは、日野資朝の遺児邦光(左兵衛佐、当国先国司)が暦応三年から四年にかけて、高津氏、三隅氏、福屋氏らの南朝方とともに石見国西部で幕府方の守護(大将軍)上野頼兼と戦っていることである。その後、正平五年(一三五〇)七月一一日には北畠親房に河内国網代庄領家職を与えた後村上天皇綸旨(妙心寺文書)の奏者としてみえ、吉野に戻っていたと思われるが、同年一〇月二一日綸旨では、勅使として左兵衛督邦光を九州に派遣することが伝えられている。権中納言に進んだ邦光は正平一八年に、四四才で死亡している(系図纂要)。
 最後に正中の変前の石見国の状況について確認すると、鎌倉末期の知行国主と国守として確認できるのは応長元年(一三一一)の西園寺公衡・大江景繁と、元亨三年(一三二三)から元徳二年(一三三〇)年にかけての四条隆有・子隆持である。隆持は補任時六才であり、父隆有が実権を持ったと思われる。隆有は後醍醐即位の前年に参議に補任されており、西園寺公衡と同様、持明院統系の人物であろう。ただし「鎌倉末期の石見国衙」で述べたように、応長元年から元弘三年にかけて石見国目代は山城国梅津下庄を支配していた藤原清隆(性圓)であった。当時は目代も本人は在京し、又代官を派遣することが多かったとされるが、性圓は在京する関係者を通じて朝廷との連絡・折衝にあたり、二〇年以上も石見国に在国していた。元弘三年に所領の当知行を安堵する石見国宣が多数出されているが、そこに「御目代藤原」と署判しているのが性圓である。その意味で、日野俊基が石見国の詳細な情報を得ることは他国より容易であったと思われる。
 質問へのストレートな回答は資料がないため不可能だが、日野俊基や花園宮が石見国と関係を持つ環境は整っていた。(とりあえず、この記事が2500本目のアップとなった)。

 

日野俊基と石見国1

 続いて質問を受けたのが標題のテーマであった。当方は後醍醐の側近として日野俊基と資朝の二人がいた程度しか認識していなかった。後者は公卿になったことで、正応三年(一二九〇)の生まれであることが確認できる。正中の変で佐渡に配流され、元弘の変の発覚により、配流先の佐渡で元弘二年(一三三二)に処刑された。四三才であった。俊基の生年は不明で後醍醐の命をうけて諸国をめぐり、反幕府方の組織化を行ったとされるが、その詳細は不明である。正中の変で逮捕されたが配流にはならず、京都に戻ったが、元弘の変で再逮捕され、元弘二年六月に鎌倉で処刑された(以上は主にWikipediaによる)。
 同じ日野家とは言っても、資朝が保元の乱後に日野氏惣領となった資長の子孫であるのに対して、俊基は資長の異母兄資憲の子孫である。資朝の父俊光は持明院統系の有力公卿で、皇位継承問題で使者として派遣されていた関東で嘉暦元年に六七才で死亡している。資朝は叙爵とともに関係の深い持明院統の花園天皇の蔵人に補任されたが、文保二年(一三一八)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇に登用されて権中納言まで進み、そのため元亨二年(一三二二)一一月には父俊光から義絶されている。
 一方、俊基の父種範は非参議公卿(刑部卿)であった。資憲の子基光は叔父資長の養子となっている。基光から四代目となる種範は資憲流ではひさしぶりの(資憲の父実光以来)公卿で、その子で非参議公卿となった行氏は弘安六年(一二八三)の生まれである。俊基は行氏の弟と思われ、後醍醐天皇のもとで蔵人に補任され、従四位下右中弁まで進んでいる。
 俊基と石見国との直接的関係を示すものはないが、益田庄は日野資長の妻の父源季兼が立券・寄進の中心であった。益田庄と同様に季兼が皇嘉門院に寄進した能登国若山庄の領家は日野氏であった。益田氏系図で国兼の父とされる日野有隆(親子ではないが、関係を有したのは確実)は、資憲・資長の父実光の従兄弟にあたる。また、長野庄の第一次寄進・立券の中心は待賢門院に仕え石見守に補任された卜部兼仲であったが、その後、領域を拡大して待賢門院の嫡子崇德院への第二次立券が行われた。日野資憲は崇德院の側近で、出雲大社領が崇德院に寄進された際は領家となったと思われる。

 

2020年4月11日 (土)

延宝六年湊町屋敷帳

 県立図書館の蔵書検索を旧十郡毎にしていたら、「延宝6年 神門郡 町屋敷帳」がヒットした。未知の史料であり、請求すると「湊町屋敷帳」であった。林七兵衛(俗に初代大梶七兵衛)が中心となった荒木浜開拓の中心として設けられた新たな町(湊原新町ともいう)である。天和三年(一六八三)七月に松江藩の役人岸崎佐久次から、神門郡下郡二名と林七兵衛宛の命令書には「西園寄荒木ノ内エ五拾五軒渡り屋敷」とみえるが、延宝六年(一六七八)の屋敷帳には、大小七二軒の屋敷が記され、最大(他の平均の五倍の面積=二反弱)の林七兵衛屋敷のみ御役御免であった。五五軒との違いの原因は不明である。七兵衛が開拓のためこの地に入ったのは延宝五年とされている。
 その立地と構造についてはよくわからないが、「横町東口」二四軒、「東小路面」一三軒、「横町東入口南」七軒、「南通小路」五軒、「観音小路」一〇軒(七兵衛宅あり)、「西灘道」一〇軒、「御蔵道」三軒に区分されている。おおざっぱに言えば、現在の出雲市大社町中荒木・恵比須を東西に走る道沿いに両側町があり、そこから別れた小路があったと思われる。中荒木・大梶の南北方向に観音小路があった。その小路の北側に湊神社と大梶神社がある。一方、中心ロードの南面に、市町によくみられる恵比須神社と知西寺がある。
 横町との表現は道の南側を流れる川との関係であろうか。なお「湊新町」に対して「湊町」の存在が想定できるが、中荒木・四軒家に存在したと思われる。その対岸は杵築南・赤塚であり、ここで川を渡ったのであろう。役所にちなむ「川方」の地名も残っている。

2020年4月10日 (金)

無線ルーター

 これまでは有線タイプの光電話ルーターであったが、契約変更により無線タイプ(ともにNEC製)に変更となった。五年ぶりの更新であったが、WH832Aのマニュアルの背表紙には「2015年8月」(第1版)とあり、がっかりした。何よりもパソコンの無線接続が大変遅くなった。比較的新しいパソコンやスマホでは、aとgの両方が選べるが、古いものだとgのみで、且つ遅いのである。半年前にネットが切れることへの対応として、WG26002600HP3に交換した。こちらは2018年6月の発売で、現在でも中心機種である。一方、832はいまでもプロバイダーの貸し出し機種としてよく使われているが、無線機能は弱い(パソコンが古い場合に速度が低下)。
 以前も、無線ルータを交換した際に、新旧2台のルーターで使用してみたが、しばらくすると問題が発生した。今回、調べたことで、ブリッジモードで光電話ルーターに接続すれば、HP3の無線機能が継続して利用できることを知った。こうする事で家族のパソコン、スマホは設定変更が必要なくなった。ギガ王からメガ王相当に変更したことで、ケーブル接続のスピードは目に見えて速くなった。無線はそこまでではないが、gはやや早くなり、aは劇的にスピードアップした。とりあえずはまずまずの結果となった。なお、コネクトモードもあり、これだと光電話ルーターと無線でつながり、そこからパソコン、スマホへのアクセスが可能となる。無線接続なので、スピードには限りがあるが、三階建てなど、広い範囲でインターネットとの接続が可能となる。
 本日はこの件があり、図書館には行けなかったが、県立を通じて借りている県外図書館の本の返却のことで連絡があり、明日から今月二四日まで臨時休館(市立は今日から)ということだ。どうすればよいかは微妙で妙案はないが、現在の図書館の利用は少なく、それならば、民間を含めた職員間や学校の生徒間の接触の方がはるかに密である。いずれにせよ、ある程度の根拠に基づき行わないと、愚かな首相が責任回避のため学校などの休校を突然要請し、その根拠がないため、卒業式には出てくださいとさらに愚かな発言をしたことと同じになってしまう。賢いだけでもリーダーは務まらないのに、賢さが全く欠如した人物をその座に放置するほど、現在の日本は平和(日本語の「無事」)ではない。退任後わかるであろう、どれほど無駄なお金が株価の維持に使われ、日本の富が減少し、若者の未来が失われたことを。そのニックネームを「レッカー車(劣化者)」としたが、根拠については述べない。誰が日本に劣化ウラン弾を投げ込んだのかを反省しなければ未来はない。

インターネットの更新

 5年前にAU光からメガエッグにインターネットを変更した。AUの問題ではなく、プロバイダーのニフティが富士通の関連会社ではなくなり、その行く末が不透明になった中で、勧誘の電話で変えてしまった。大きな問題は無かったが、5年契約はメリットとともにデメリットがある。ハード面は日進月歩であり、長すぎると思った。メガエッグはプロバイダー込みでとりあえず無くなることはないのがメリットか。
 ということで、ケーブルテレビに乗り換えようと思っていたが、ホームページのためのレンタルサーバー等の準備が整わず、とりあえず延長することにした。前と同じが料金的には安いが、ここ半年、突然回線が切れることがあり(無線ルーターを従来のものよりラングが上で新しいものに交換したが、変わらず。とりあえずは有線ケーブルを外して無線にすれば回復するが、無線でも時々回線切れが発生)、従来のメガ王からギガ王相当の新サービスに変更した。期間内であったので、変更にともなう料金は発生しなかった。業者から送られてきた新たな機器につなぎなおして、とりあえず、光電話とメイン機(有線+無線内蔵)で有線接続を確認したところ。いつものようにスピードテストを行うと、従来は50~90であった数値は上り下りとも500以上となり、スピードアップを体感できた。後は無線のスピードアップと回線切がなければ問題解決である。
 LPレコードは北海道から無事到着した。落札価格は税込八八〇円に送料一二〇〇円であった。料金の決済をしても業者から連絡がないので、過去の状況を調べると、連絡がないことに不満を述べたものがあったが、落札から一〇日前後で到着していたので気長に待ったら、発送連絡があり、その二日後に到着した。外観は良好である。問題はデジタル化で、情報を集めたが、しばらくは放置することとした。購入する製品は目星を付けたが、なんせそれ以外のレコードを所有していない。家族が実家にあるようなことを言っていたが、実は本人所有のものはほとんどないようだった。CDとなっていないレコードで欲しいものがあれば、それも購入したいが、なかなか該当するものもない。
 船村徹氏の四五周年コンサート(1995)は以前、NHKで放送したのをVHSで録画していた。クラウンレコードからDVDで発売されていたが、現在では入手困難である。そのテープの所在は不明だが、その音声のみをカセットテープ二本にダビングし、さらにその中の「希望」を過去にデジタル化していた。オンキョーのSE-U55はそのために購入したものであろう。今回、カセットの一本目があったので、久しぶりに聴いてみたが、状態は今ひとつであった。同時に入手した細川たかしのアルバムのテープの再生は良好であり、当該テープの問題のようだ。とはいえ、一本目の60分の中に全体の八割近くは入っており、コンサートの状況は確認できた。「希望」は残りの二本目(15分程度か)に入っていたものである。
 活動を休止していたちあきなおみは当然参加していないが、当時一〇周年曲「海鳴りの詩」の提供をうけたばかりの島津亜矢とともに、作品の提供を受けていない田川寿美が参加し、共に美空ひばりの曲をカバーしていた。前者は当方より一四才若く、後者は一八才若いが、現在では後者ですらちあきなおみが休止した年齢に達している。その意味で、鳥取県米子市出身の大黒美和子(黒木梨花、当方より二五才若い)の方針転換は痛かった。ひばりの歌から演歌以外まで幅広く対応できる声質であった。現在聴いても魅力的であるが、時代が求めるものが名曲からカラオケで歌いやすい作品に変わったことが残念である。ネットでは最近のものも、過去の作品も聴くことができるが、聴いた人の数は極めて少ない。ちあきなおみ「紅い花」のカバーをした動画もあるのだが、大変緊張しますと言って歌っている。

2020年4月 7日 (火)

人名比定の難しさ2

 ということで、兵部卿は藤原成家(1215出家、20没)藤原忠行卿(1231出家・没)→菅原在高卿(1232出家・没)→藤原経賢朝臣(1246出家・没)→藤原成実卿(1256出家)→源有教卿と受け継がれてきた。厳密に考えると、建長五年時点での「兵部卿入道」は存在しないが、勧修寺流吉田経房の孫経賢は出家した七月二〇日と死亡した一〇月七日にはズレがあり、『葉黄記』一〇月七日条には「入道三位〈経賢〉、他界」としるされている。経房の祖父為隆以来、摂関家家司を務めてきた一流に属している。
 近衛家領の知行者も本領として継続的に支配する人物と給分として一時的に与えられた人物がいる。柿園については、『岡屋関白記』寛元四年三月一〇日条に、惟宗行経が国務を去る時に柿園を与えられた例が述べられている。行経は仁治三年三月七日に下総守に補任され、寛元二年八月二五日には大江親佐が補任されているので、これ以前に退任していたことになる。そして退任後に経賢跡の柿園を与えられたのだろう。一方、行経は建長五年の目録では榎並下庄の一部の知行者としてみえている。これによれば、行経の所領も短期間で変わっていた可能性が高い。
 なお桜井氏は「兵部卿入道」の第二候補として平時仲を上げている。時仲は建長五年時点では兵部権大輔であり、兵部卿であることが確認できるのは正嘉元年(一二六〇)年三月である。文永元年九月二〇日には四条隆親が兵部卿に補任され、翌二年一月二三日には兵部卿入道時仲とみえる。氏は弘長元年に参議に補任され公卿となった源資平が、建長五年の目録では「資平」と記された所領と「資平卿」と記された所領がある例をあげている。これによるなら、知行者は建長五年時点のものとは限らないことになる。

人名比定の難しさ1


 京都大学所蔵の淡輪文書の画像が公開されているが、第一号の「禅定従二位家政所下文」の禅定従二位の比定はなされていない。編纂所の花押データベースも同様である。ただし、『公卿補任』を利用すれば、容易に比定ができることは前述の通りである。桜井彦氏の論文で近衛家領の知行者の比定がなされているが、ある程度関係史料が残っているにもかかわらず、『尊卑分脈』にみえない人物も少なからずあり、この作業は容易ではない。
 氏の論文集の「あとがき」によると、近衛家領を検討した論文は、それまで未発表のもの(新稿)で、とりあえず論文集が刊行された二〇〇六年二月以前のものである。その当時と比べて現在では編纂所のデータベースの充実や文書の画像データの公開が進んでおり、氏の作業には困難があったのも事実である。なお、検討していないものが残っており、それについては問題があれば、後の記事で言及したい。
 検討の必要を感じたのは近江国柿御園の知行者「兵部卿入道」である。氏は「本目録が建長五年に成立したものであり、官職などの記載が忠実に当時のものを反映しているとすれば、建長五年段階で兵部卿であった(源)有教とみなすべきであろう。ただし、有教については出家をしたことを示す資料はなく」としている。有教ならば「兵部卿」でなければならない。比定すべき人物は、建長五年以前に兵部卿となり、且つ建長五年以前に出家した人物である。これ以外にも「宗俊法師」と「行有法師」も建長五年時点で出家していた人物に比定すべきである。
 有教が兵部卿に補任されたのは嘉禎二年七月二九日に従三位に叙せられた時点である。前任者藤原成実が子成基を侍従にするため兵部卿を辞したことによる。成実は寛喜三年三月二五日に太宰大弐兼宮内卿から兵部卿に転じている。その前任者は嘉禎三年に従三位公卿となった藤原経賢で、嘉禄二年(一二二五)正月一三日に兵部卿に補任されている。その時点では従四位上であり、公卿以外が補任されていた。経賢の前任者は承久元年一〇月五日に補任された正三位菅原在高卿であった。在高は前任の藤原忠行(建保三年四月に藤原成家の出家により補任)が子経季を刑部大輔にするため、同年八月一三日に兵部卿を辞したことをうけての補任であった。在高が子淳高を刑部卿に補任するために兵部卿を辞した後任が経賢であった。
 

2020年4月 6日 (月)

プラットフォームの一新

 二月にモデルチェンジしたフィットとヤリスの売れゆきが注目されているが、ヤリスが名称のみならずプラットフォームを一新したのに対して、フィットは前モデルのプラットフォームの改良にとどまっている。その違いを示すのが、両車の重量で競合モデルで比べるとヤリスの方が一〇〇キロ軽い。ある情報では一年後にモデルチェンジするSUVヴェゼルからホンダ車のプラットフォームは一新されるという。他方では、初代と同様、二代目ヴェゼルもフィットのプラットフォームを使うとの予想もある。
 新プラットフォームはTNGA(トヨタ)やDNGA(ダイハツ)などの名称で呼ばれているが、最大の目的はコスト削減であり、良いことばかりではないそうだ。ただし、トヨタ、ダイハツ車が軽量化で先行していたスズキのレベルとなったのに対して、フィットはやはり重く、標準車、ハイブリッド車ともに課題があるようだ(これまで試乗したのは人生で一度しかないので伝聞となる)。現在はともかく、このモデルが末期となる六から七年後は厳しく、ヴェゼルと同様、プラットフォームを更新すべきであったろう。
 一方、ヤリスの前モデルヴィッツのプラットフォームを流用したのがカローラの前モデルであった。開発担当者は唖然としたそうだが、上からの命令に従うしかなく、前モデルのカローラと現モデルには大きな差があるそうだ。ヤリスはヨーロッパ中心のモデルとなり(マツダのマツダ2と同じコンセプト。米市場ではメキシコ製のマツダ2がヤリスとして販売されている)、走り重視で、居住性等は優先度が低い。また、ヨーロッパモデルと日本モデルはダンパーが違うため、日本モデルは足回りがゴツゴツしているとされる。スズキスイフトスポーツの前モデルもヨーロッパでの試乗車と日本での試乗車で余りに落差があり、がっかりしたとのコメントをみたことがある。国内メーカー製ダンパーは耐久性に優れるが、乗り味はヨーロッパメーカーのダンパーに劣るとされる。トヨタのSUVであるC-HRもマイナーチェンジで国内メーカー製ダンパーに変更され、普通の車になったとされる。
 自動ブレーキもフィットはホンダ車初の単眼広角カメラタイプに変更した。前モデルは日本製の単眼カメラ+ミリ波レーダー(ホンダセンシング)であったが、性能は低かった。インテルの関連会社モビルアイ社のチップを使えば、N-BOXから導入した、独ボッシュ製の単眼カメラ+ミリ波レーダーに劣らない性能とされるが、ライバルはさらに進化している。日産・三菱連合のデイズは新フィット同等の自動ブレーキであったが、今年に入って一新したルークスは、これにミリ波レーダーを付加したセレナと同タイプのものに変更している。ミリ波レーダーにより、二台前の車の状況も検知できるようになったとされる(ただし、自車の性能が良いと、後車から追突される危険性は増す)。ホンダもコストを重視したのだろうが、新フィットのシステムも早晩変更されるであろう。スズキハスラーの開発担当者も、ミリ波レーダーのタイプではなく、デュアルカメラのタイプとしたのはコストの問題と答えていた。後述のダイハツと異なり夜間にも対応で、スバルアイサイトと同じ日立製カメラを採用するが、アイサイトにはやや劣る。スイフト以降採用したデュアルセンサーブレーキは夜間の検知ができず、ダイハツのスマアシⅢ(SUVライズ・ロッキーにも搭載。スズキの同タイプより後から出たのに、性能ははるかに劣っている)とともに時代遅れとなっていた。予約が始まったタフトの自動ブレーキはどうであろうか。最低でもスマアシⅣとなっていなければ大変だ。昨年モデルチェンジしたタントの売れ行きは今一で(一ヵ月だけ一位となったが、その半分は、レンタカー用やディーラー名義であったとされる)三月の軽自動車販売台数では久しぶりにスズキがトップとなっている。スズキはハスラーがチェンジしたといっても、新設計の標準エンジンに異音がある個体があり、ターボモデルを除いて受注を一時停止(新エンジンに変えたワゴンRも)したとされる。本日三月の通称名別のデータも発表されたが、新エンジンに変更していないアルトの販売割合が高くなっているように思われる。

近衛家領について

 摂籙渡庄である出雲国冨田庄と隠岐国重栖庄について、桜井彦氏の論文を参照して確認したが、続いて同氏の論文「近衛家の荘園支配」(同『悪党と地域社会の研究』)、並びに川端新氏「近衛家荘園群の形成と伝領」を参照して、近衛家領目録にみえる、出雲国福頼庄と吉田庄、隠岐国知布利庄について確認する。
 福頼庄領家良頼卿が高階良頼、吉田庄領家宗成が高階宗成、知布利庄領家顕氏卿が藤原顕氏に比定できることは自分で確認していた。良頼は学問の家の出身で、歌人として知られる宗成は摂津国放出の領家でもあり、同じく歌人として知られる顕氏は備前国直嶋と豊前国豊前吉田の領家でもあった。
 良頼領福頼庄と顕氏領知布利庄・豊前吉田は高陽院領、宗成領吉田庄は冷泉宮領、放出は京極殿領であるが、顕氏領直嶋の所属は不明である。冷泉宮領とは小一条院敦明親王の娘で祖父三条天皇の養女となった儇子内親王の所領であるが、養女とした源麗子に譲られた。麗子は藤原師実の北政所で、師通の母であったため、その所領は師通の子忠実が、麗子没年の永久二年(一一一四)頃に継承・入手した。その中には儇子が嫁いだ藤原信家(関白教通の子)の所領や麗子に寄せられた所領も含まれており、すべてが一一世紀に成立した所領であるわけではない。
 保安元年(一一二〇)頃に成立した「執政所抄」には一二月二八日の冷泉院殿御忌日の負担が課された荘園がみえる。伯耆国笏賀庄は含まれるが、吉田庄はみえない。同様に一一月七日の高倉殿御忌日の負担が課された荘園に福頼庄がみえる。高倉殿とは後朱雀天皇と中宮嫄子(敦康親王の娘で藤原頼通の養女)の間に生まれた祐子内親王で、二才で母嫄子が死亡すると、養祖父頼通のもとで育てられ、長治二年(一一〇五)一一月に六八才で死亡した。高倉殿御忌日を負担する荘園は後の高陽院領が中心であり、祐子内親王領が藤原忠実をへて、忠実の娘で鳥羽院の皇后となり、その後院号宣下をうけた高陽院泰子に継承された(川端氏による)。高陽院領知布利庄はその負担を行っておらず、「執政所抄」以降に成立した庄園であろう。摂籙渡庄富田庄と重栖庄を含めても、現時点で出雲・隠岐で最も早く成立した摂関家領庄園は福頼庄とすべきである。
 高陽院領には頼通の娘で後冷泉天皇の皇后となった寛子=四条宮領も含まれている。頼通→寛子→忠実→高陽院と伝領されたものである、寛子領のうちの五ヶ所は養女となっていた前斎院禛子内親王(白河院の娘)に譲られ、その中に出雲国薗山庄が含まれていた可能性が高いことは前述の通りである。禛子内親王は保元元年に死亡したが、その所領が摂関家に戻ることはなく、薗山庄の本家については不明である。なお京極殿領は頼通領で代々の当主が伝領し、忠実領となっていた。

 

2020年4月 4日 (土)

常陸親王令旨2

 花園宮の活動は暦応三年(一三四〇)正月二八日堅田(佐伯)経貞軍忠状(佐伯杏庵蔵文書)により。新田綿打入道とともに土佐大高坂城の救援にあたっていることがわかる。次いで康永元年(一三四二)九月二六日同軍忠状(蠧簡集拾遺)により、金沢殿、綿内殿とともに土佐岡本城を攻めているが、その後の状況は不明である。一方、護良親王の子で後醍醐の猶子となった興良親王は、興国二年(一三四一)夏に常陸国に入ったことが確認でき、両者が別人であるが確認できる。興良は康永二年一一月一一日に常陸国の南朝方の拠点関・大宝城が落城したことで、常陸国を脱出し、駿河国での逗留を経て正平三年正月には「宮将軍」として和泉国での活動が確認できるが、その直前の正月五日の四條畷の戦いで楠木氏をはじめとする南朝方は壊滅的打撃を受けたことに伴う体制立て直しはうまくいかなかった。
 その後、正平五年二月二六日と正平六年三月八日には兵部卿親王令旨が忽那氏(忽那家文書)に宛てて出されているが、その奏者は「右少将」である。次いで正平六年八月一三日(内田家文書)と九月二三日(小早川家証文)の宮将軍令旨が残されている。その奏者も「右少将」であり、同時期の常陸親王令旨の奏者「右兵衛佐」とは異なっている。ここからすると、兵部卿親王と宮将軍は同一人物であるが、常陸親王とは別人とせざるを得ない。一方、土佐から周防へ移ってきた満良が「常陸親王」と呼ばれるのは根拠がないとの説に理があるのも確かである。常陸親王の御使の一人「一宮源蔵人大夫入道」には「遠江国」との注記があり、駿河国に逗留した興良との関係がうかがわれる。それらを踏まえると花園宮と呼ばれた満良が「兵部卿親王」令旨と「宮将軍」令旨の発給者であり、常陸親王は過去に常陸国で活動していた興良であろう。興良は父護良にちなみ「故兵部卿親王」と呼ばれたが、「兵部卿親王」は満良=花園宮である。満良は正平七年の京都占領に参加し、その子とされる石見宮とともに戦死した可能性が高い。そのため、「兵部卿親王」令旨と「宮将軍」令旨が正平七年以降みえない。花園宮→兵部卿親王→宮将軍(満良)であり、故兵部卿親王→宮将軍→常陸親王(興良)である。

常陸親王令旨1

 ブログの読者から質問をいただいたので、新井孝重氏「興良・常陸親王考」(同『日本中世合戦史の研究』所収、初出2001年)を手がかりに検討してみた。新井氏の著書は県立図書館が所蔵しており、以前、楠木正成に関する論文を参照したことがある。常陸親王令旨については、新井氏論文で一覧表が作成されているし、編纂所データベースで「常陸親王」で検索すれば表示される。ただし、こちらは複数の史料集(毛利家文書と南北朝遺文等)に収録されたものが重複している。
  新井氏は文書の真偽についての検討はなされていないが、このように関係文書を網羅した際にこそ検討しなければならない。「忌部大宮濫觴記抄」と「出雲勝田神社蔵勝田濫觴録」に収録されたものは後に他の文書を参照して作成された偽文書である。正平六年二月一〇日令旨写は三刀屋氏宛の軍勢催促状が「二月 日」である点と「館」ではなく「殿」である点が異なっている。とはいえ、正確に偽文書を作られれば文句のつけようがない。正平六年三月二五日令旨写は、同日の感状はこれ一通しか残っていない上に、署判者が「右兵衛佐」ではなく「左兵衛尉」と、「致忠貞者」が「致忠者」となっている。正平六年四月二五日令旨写は署判者が惜しいことに「左兵衛佐」となっている。要は「忌部大宮濫觴記抄」と「出雲勝田神社蔵勝田濫觴録」そのものの史料としての評価であり、これに収録された文書はその真偽の検討なしには使用できない。本来なら南北朝遺文収録時にきちんと検討がされなければならなかった。竹内氏による『鎌倉遺文』と同様の寛容な評価は許されない。正平七年二月一日令旨写(厳島神社文書)については、新井氏のリストにはないが、同日令旨写(藤田文書、田所新左衛門尉館宛)と同じものであろうか。
 質問の内容は、後醍醐天皇の子花園宮(満良親王)と三隅氏女子との間に生まれた石見宮が、正平七年の南朝による京都占領に応じて上洛し、幕府方が京都を奪回する中で死亡しているが、この二人と正平六年から一〇年にわたって中国地方で活動している常陸親王との関係はどうかというものであった。新井氏の論文を確認後、回答しようと思ったが、昨日は第一木曜日で県立図書館が休館であったため、とりあえず返答した。正平六年七月三〇日常陸親王御使交名(毛利家文書)に、花園宮が現在の常陸親王と名乗っていることが記されており、これを確実な情報としたが、再検討する。

2020年4月 2日 (木)

斐伊川流域と洪水

 検地帳は戦後しばらくは、太閤検地の意義や百姓の階層分析に盛んに使用されたが、実態とのズレが認識されてからは使用されなくなった。とはいえ、地域の実態(地誌)を考える上では今でも重要な情報を提供してくれる。
 少し前まではその地域の開発の進行や洪水の有無について注目していたが、耕地開発には灌漑の整備によるものがあるという至極当然な事に気づいて、検地帳を見直している。そのためにはポイントとなる時期について、比較対象を含めて検地帳が残っている必要があるが、都合の良い事例は少ない。
 中世は塩冶郷内の村であった高岡村については、慶長七年(1602)と寛文九年(1669)の検地帳が残っている。惣田数こそ51町9反余から62町9反余に増加しているが、反別1.5石以上の割合は57%(29町余)から23.2%(14町5反余)に低下していた。前者では最低でも反別1石であったが、後者では一石未満の田(下々田、新下々田)が19.8%を占めている。付された字をみても、慶長7年の時点では細かく記されていた(古川もあるが筆数は少ない)が、後者では13の字のみで、横枕と屋敷餘が多数を占める。以上の点からこの間(1602~69)に洪水により水田が土砂で埋まるような災害が発生した事がわかる。寛永末年の洪水前状況を示す出雲国絵図では、斐伊川から分岐して高岡に至る流れが消滅しており、慶長七年からそう間を置かない時期にも洪水が発生したことは確実である。
 朝山郷北端で大社領遙堪郷と川を挟んでいた常松村には、元和七年(1621)と貞享四年(1687)の検地帳が残っている。惣田数は18町から29町余に増加しているが、前者には細かい字が記されており、その中には「古川」が22筆、「河よけ」が7筆みえ、これ以前に河の流路が代わったことがあった可能性が高い。後者は9字に統合され、「古川」が37筆ある。この原因となったのは寛永末年の洪水であり、貞享四年までにはある程度回復し、新田開発も行われた。一石五斗以上の割合は、61.6%(11町余)から38.5%(11町余)に低下している。常松村は元和七年以前にも洪水で水田が土砂で埋まる事態があり、且つ河の流路が変わることもあったが、生産は回復していた。それが、寛永末年までに再度洪水があり、前回以上の被害が出、貞享四年の時点でも完全には回復していない。一石五斗以上の田数は元和元年とほぼ同じであるが、前者は上々田(一石七斗)が40%であったのに対して、後者は上々田(一石八斗)が11%で、中田(一石㈣斗)の割合が16.5%から51.8%に増加している。
 二つの事例ではあるが、寛永末年までに少なくとも二回の洪水があったことがわかる。一つ目が慶長七年から元和七年までの間の洪水である。遙堪村阿須伎社蔵の「天日隅宮末社傳」によると、慶長一四年八月一七日の洪水で社殿が壊れ、神寳等が全て流出したとしている。翌一五年、松江藩による鉄穴流し禁止令が出されたのは、この洪水をうけてのものであろう。二つ目が寛永末年の洪水である。最初の洪水で、斐伊川から分岐し高岡へ、斐伊川分岐点から常松への流路は途中で埋まってしまった。高岡から常松に至る流路も同様であろう。とりあえず、斐伊川下流域で一七世紀に入り、寛永末年の洪水の前にも大規模な洪水があったことが確認できた。

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