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2020年3月23日 (月)

嘉禎四年の出雲・隠岐守護1

 たまたま県立図書館で「古文書学研究」88号を手に取ると木下竜馬氏「新出鎌倉幕府法令集についての一考察」が目に入り、のぞいててみた。『中世法制史料集』に収録されていない式目追加が新たに発見されたとのことであった。個々の法令については今後の課題として、注目したのは一三世紀半ばの全国の守護名のリストが含まれていることであった。次いで巻末の追記をみて驚かされた。この新出史料を紹介した別の報告が「史学雑誌」128編9号に掲載されているとのことである。それは渡邊正男氏「丹波篠山市教育委員会所蔵「貞永式目追加」」であった。近年は史料の画像データの公開が進んでおり、閲覧する中で注目すべき史料に出くわすことはあろう。木下氏は2019年4月からは史料編纂所に勤務しており、渡邊氏は職場の同僚・先輩であった。たたたま、投稿した雑誌の刊行時期の違いで渡邊氏の論考が先に出たようだ。木下氏は東大大学院の修士課程(日本史)終了後、国立国会図書館に勤務していたが、母校で慣れ親しんだ編纂所に転職したようである。
 先ず問題となるのが守護のリストがいつの時期のものかであるが、渡邊氏が嘉禎から暦仁(一二三〇年代後半)頃のものとしたのに対して、木下氏はずばり、嘉禎四年(一二三八)の将軍頼経の上洛に際して、各国に負担をさせるために作成されたリストがもととなったと述べている。古文書学研究は最新号なので借りることはできない。旧号である史学雑誌を借りて、家で検討してみたが、木下氏と同様、将軍上洛期のものとの結論を得た。わかりやすいのが、河内守護「備前守殿」に比定できる大仏朝直で、嘉禎三年九月一五日に備前守に補任され、翌四年四月一六日には武蔵守に遷任している。備後・出羽両国守護「長井左衛門大夫」=泰秀は嘉禎四年閏二月一五日には甲斐守に補任されており、リストはこれ以前のものである。守護のほとんどは頼経の上洛に従った御家人の中にその名を見いだすことができる。本日は自己の検討を踏まえて図書館で木下氏の論文の当該記述、とりわけ守護の比定を確認した。両稿とも史料紹介が中心であり、とりわけ渡邊氏の論考にはその性格が強いが、木下氏は一歩踏み込んで検討しており、それが年代比定の精度にもあらわれている。
 中には比定が困難な人物もいるが、両氏の比定が明確に異なったのは、備前守護「壱岐左衛門」であった。なお以下で出典名を明記しないものは『吾妻鏡』が出典である。渡邊氏は嘉禎四年二月二八日条にみえる「壱岐三郎左衛門尉時清」と同一人物ヵとした。渡邊氏は時清の苗字までは確認されなかったが、『吾妻鏡』で検索すると、時清は葛西氏で、その父については清重とするものと、その子清親とする系図がある。これに対して木下氏は、嘉禎三年六月二三日に「近江大夫判官」とみえ(伊藤邦彦氏『鎌倉幕府守護制度の研究』によると検非違使補任は嘉禎二年一一月)、同年一二月二五日に壱岐守に補任された佐々木泰綱であるとした。泰綱は承久の乱で近江佐々木氏広綱が没落した跡をうけた広綱の弟信綱の嫡子(六角氏)である。承久の乱後の備前守護については、後鳥羽院の子頼仁親王を備前児島に護送した佐々木(加地)信実であったとの佐藤進一氏の説に対して、文永元年に備前守護に見任している長井氏(配流された後鳥羽とその子の監視を担当)が承久の乱後の守護ではなかったかとの説を当ブログで示したが、そうではなかったようだ。備前国は幕府知行国とされたので、その意味では有力御家人が守護であれば問題はないということか。なお、乱の直後に信実が補任された可能性は残されている。

 

 

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