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2020年3月 4日 (水)

田原庄と多紀庄の相傳2

 話を戻すと、八月二五日の政所とは九条家ではなく三条家のものであるが、公房が公卿になる前であり、父実房の家司藤原朝房一人が署判する異例な形となった。西谷氏が有房の女子としている「中納言典侍」とは有房の父師行の晩年の子である瑞子であり、これ以降に出家したことがわかる。文治三年九月一八日に高倉天皇第三皇女で伊勢斎宮であった潔子内親王が伊勢群行した際に「女房中納言典侍陪膳」とみえ、斎宮女房となっていた。前述のように、高倉天皇第二皇女で賀茂祭院となった範子内親王の仮御所を提供していたことが想起される。
 問題は中納言典侍瑞子と公房の関係であるが、『平家物語』では「阿波内侍」とも呼ばれる瑞子の父を信西入道とするものとその子貞憲とするものがあるというが、『玉葉』の記事により前者であることは確実である。母は後白河天皇の乳母であった藤原朝子とされるが、信西と朝子の子達の生年は一一四〇年±五年である。本ブロクでは瑞子の生年を平治の乱前後としたが、その母の生年は朝子の子達と矛盾しない。そうすると、母の同母兄弟脩範の子範能は瑞子の従兄弟となる。その範能の子修子が公房との間に有子(安喜門院)を生んでいるが、その誕生は建永二年(一二〇七)年で、建久四年の一三年後である。ただし、範能の子範海が公房の養子に入っている。範能の生年は不明だが、仁安二年(一一六七)正月に叙爵しており、従姉妹である瑞子より一〇歳程度年長(一一五〇年頃の誕生)であろう。範能は建久三年一〇月二六日に大宰大弐を辞任した。出家こそその四年後だが、建久二年一〇月に辞状を提出していた。何が言いたいかというと、よくあるバターンであるが、晩年の子である範海と修子を三条公房に委ねたのではないか。その代償が瑞子からの多紀庄一方の譲与であった。成長した修子が有子を産んだ時点で公房は四一歳であった。瑞子から公房に多紀庄が譲られる背景としては、以上のことぐらいしか指摘できないが、公房の母が経宗の娘で、大炊御門頼実の姉妹であったことも影響したと思われる。頼実は一一五五年の生まれで、その姉妹が公房を産んだのが一一七九年であることから、両者は年の近い同母兄弟姉妹であったと思われる。
 瑞子領の内、播磨国田原庄は、瑞子の義理の兄弟である有通の嫡子有教に譲られ、丹波国多紀庄一方(泉村=北方)は瑞子の母方と関係が深い三条公房に譲られた。最終的には両方とも九条家領となったが、その経過は文書の残り方が違うように、異なっていた。西谷氏の論文では田原庄の碑文には言及されていなかった。この碑文により、田原庄が安喜門院領から九条家領になったことが証明できる。
 なお、「九条家文書」は活字となっているが、県立図書館が所蔵していないため、未見であった。それが運命ではないが、三月三日から史料編纂所のデータベースで宮内庁書陵部所蔵の資料の内、調査済みのものが公開された。早速「Hi-CAT Plus」をクリックして「九条家文書」で検索してもヒットしない。「九条家」で検索するとその所蔵史料が表示されるが、その中には公開された史料目録のPDF版の中で、九条家文書のみ含まれておらず、一瞬、落胆したが、もしやと思い、ユニオンカタログで当該文書を検索することとした。これまでは編纂所に来所して所定のパソコンで閲覧するしかなかったものが、自宅のPCで画像が表示されるようになったのである。活字本でみるか、写真でみるかでは得られる文書の情報が格段に違ってくる。蛇足であるが、付け加えた。

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