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2020年3月28日 (土)

一利しかない、斐伊川流路から

 「百害あって一利なし」との言葉があるが、この場合は一利(一理)があるのみという意味で使用している。
 ブログで江戸末期の神社と風土記時代の神社を結びつける作業について批判した。その最大の理由は途中の過程(平安~江戸中期)を無視していることにある。それを踏まえた作業なら害は少ないが、これまであった作業の大半は踏まえていない。『出雲国風土記』が唯一の完本として残ったため、江戸後期には出雲国内のみならず、国外の研究者による作業が行われ、研究史の整理も行われている。各神社が自らの神社としてのランクを上げるため、願書を出しているが、そこでも関係文献が引用されている。ただしその記述は根拠薄弱で、当たるも八卦、当たらぬも八卦とのレベルである。
 現在、必要に迫られて斐伊川の流路について検討しているが、過去の説は風土記の時代と寛永年間を一直線に結びつけ、その過程を無視したものであった。その意味で、美多実氏や藤沢秀晴氏が主張したように、過去の説は誤りである。ところが最新の研究成果であるべき『松江市史通史編』近世1でも過去の説が踏襲されてしまったのである。「ほかに良い説がないので」と言えば、現在の内閣支持の理由を想起させるが本当だろうか。
 当ブログでも過去にこの問題について述べたが、荒野の開発について、水害に遭いやすくコントロールが難しいという面の克服にのみ注目していた。一方では灌漑が不十分なための荒野もあったはずである。大まかに言えば、現斐伊川の東岸では前者が中心であったが、西岸では洪水の危険性は低く、後者が中心であった。三月一四日の斐伊川東流問題検討会でも気になったところであった。また「明治三十五年寺社由緒書」の高岡八幡宮の項でも、旧神官永田家の古傳口述として「高岡ハ土地高クシテ、荒地延長元年開墾ニ付、同年八月十四日八幡宮ヲ村ノ上ニ鎮座セシメ、夫ヨリ荒地を開発ニ着手シタル」と記されている。延長元年(九二三)については検討の余地があろうが、神社や寺院が開発の拠点として開設されることはよくある。塩冶郷内北部高岡では、洪水の危険性の克服ではなく、灌漑施設の整備が課題であった。
 西岸地域で洪水の危険性が低かったことは、現在の生活面からどの程度掘り下げれば目的の時代の遺構面に到達できるかの比較でもわかる。東側は砂が五メートル以上は堆積しているのに対して、西側は一メートル程度であるという。斐伊川の水位が上昇した場合、最初に溢れるのは東側である。それも宍道湖に至る数多くの中小の流れがあったため、これが遊水池の役割を果たしていた。このため平野北部で洪水があることは少なく、且つ宍道湖に早い流れが流入することもなかった。例年並みの降水量ならこれで対応可能で、大きな問題とはならなかった。これが数十年に一度の降水量となると、西側でも大規模な洪水が発生したであろう。ただし、南側で先に溢れるため、北側になればなるほど洪水の程度は小さくなる。
 寛永年間の出雲国絵図をみると、斐伊川から西流する流れはなく、これに対して東流路は何本もあるが、飛び抜けて大きい流れはない。それが一八世紀の絵図になると、北流し其の後東流する流れが圧倒的な規模で、他の流れは小規模化している。一方、寛永期にはなかった西流し日本海につながる川がみられる。洪水防止と舟運のため開削されたものであろう。以前とは異なり、平野北部まで大量の水流がもたらされ、豪雨の規模によっては洪水が発生した。実際に楯縫郡平田周辺では洪水とそれにともなう川違えがみられる。一九世紀の絵図をみると、洪水対策として、東岸南部を東流する大きな流路が開削されている。同様に西岸南部から日本海につながる大きな流路も開削されている。これにより、平野北部で東流する流路の占める割合はやや低下した。宍道湖へ流入する速度も一七世紀半ばが最大で、その後はやや低下している。

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