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2020年3月18日 (水)

富田庄と重栖庄の領家

 平等院領富田庄と法成寺領宇賀庄・重栖庄については九条家所蔵の摂籙渡庄目録にみえるが、二通残る目録に関連して、桜井彦氏の研究「九条家と地域社会-二通の「御摂籙渡庄目六」から」(『書陵部紀要』64、2015)を参照して標題のテーマについて補足する。
 桜井氏により二通の成立年代について、①嘉元三年四月頃(従来不明であったが九条師教が氏長者となったことを契機に作成)と②暦応五年正月(九条道教が氏長者となり、前任の一条経通から渡されたもの)であることが示されたが、宇賀庄の領家については①②とも記載がなく、重栖庄は②にのみ「政所親俊、地頭請所、公用卅貫」と記される。富田庄は①には「式部大輔在輔卿」、②には「前右大弁三位被拝領之」とある。記載がないものについては検討が必要だが、準備がないので、得分を氏寺・氏神や家司ではなく氏長者本人が得ていた可能性を指摘する程度にしておく。
 重栖庄領家親俊は、東北院領河内国輪田庄の領家としてみえる「有官別当親俊」と同一人物であろうが、後者について桜井氏は勧修寺流吉田氏の傍流冷泉親俊に比定している。吉田資経の子は為経(正二位中納言)、同母弟経俊(正二位中納言)と異母弟高経(正三位非参議)が公卿となったが、為経は四七才で出家し、その半月後に死亡している。経俊が公卿となったのは、為経が死亡した二年後で、四三才、高経が公卿となったのは六八才であった。
 為経の嫡子経長は三九才で参議となり、正二位大納言にまで進んでいる。その異母弟である四男経頼が冷泉家を名乗る。経頼の母は平棟基の娘で、弘安九年に参議となり、正二位権中納言にまで進んでいる。経頼と祇園執行盛晴の娘との間に生まれたのが頼定(従二位権中納言)で、その子定親(従三位参議)が重栖庄領家親俊の父である。定親の娘は九条経教(関白二条道平の子で、関白九条道教の養子となる。従一位関白左大臣)の妻となり、教嗣(正二位右大臣)を生んでいる。こうした関係を背景に、親俊は九条家の政所となり、重栖庄や輪田庄の領家になったのだろう。重栖庄の地頭重栖氏は佐々木泰清の五男茂清の子宗茂を祖としている。
 富田庄の嘉元三年(一三〇五)時の領家は菅原在輔(正二位非参議)で、学問の家菅原(唐橋)在公(従三位非参議)の子である。これに対して暦応五年の領家「前右大弁三位」は桜井氏が比定したように、中御門為方の曾孫為治(正三位権中納言)である。為方(正二位権中納言)とその嫡子為行(正二位権中納言)までは公卿に進んだが、為治の父為宗(為行子)は早世したためか公卿とはなっておらず、為治は祖父為行の養子となっている。為治は祖父為行が四〇才時に誕生した孫であるが、暦応三年七月十九日に参議となったが、翌年七月二三日には母の死により服解となり、その後間もなく、本座に復しているが、観応二年四月一六日に権中納言に補任されるまでは「前参議」であった。右大弁補任は暦応元年一二月一二日であり、同二年四月一八日に皇太后宮亮から春宮亮に遷るとともに右大弁を去っている。目録では「前右大弁」であった。為治の曾祖父為方と親俊の祖父頼定が従兄弟であり、ともに藤原為隆の孫経房の子孫であった。為隆は摂関家家司であり、その子孫も摂関家と深いつながりを維持していた。菅原在輔は九条師教のもとでの領家であり、中御門為治は一条経通のもとでの領家であった。当然、氏長者の交替により領家も交替することが一般的であった。以上、出雲・隠岐の摂籙渡庄の領家について確認した。

 

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