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2020年3月 4日 (水)

田原庄と多紀庄の相傳1

 西谷氏の論文の複写が届いたので、コメントを加えたい。丹波国多紀庄を三条公房に譲ったのは「中納言典侍」だった。建久四年(一一九四)八月一三日八条院庁下文で相続が安堵され、それを受けて八月二五日には政所下文が出されている。当然、三条公房家政所下文とすべきであるが、公房が建久六年七月に蔵人頭、一一月に従三位に叙せられ公卿となる前である。父実房は左大臣であったが、当該文書は「政所下」としながら、奥に「遠江守藤原朝臣」が署判するのみの異例な形である。
 『鎌倉遺文』と『兵庫県史』史料編中世では「九条家政所下文」、『九条家文書(図書寮叢刊)』では「関白九条家政所下文」としている(編纂所の日本古文書ユニオンカタログで「多紀庄」で検索)。大日本史料データベースではヒットしないので、未収録と思われる。それならば、花押カードデータベースで「遠江守」で検索すると、当該文書とともに建久三年二月日後白河院庁下文(九条家文書)の署判者「前遠江守藤原朝臣(為頼)」と「遠江守藤原朝臣(行房)」がヒットした。当該文書の「遠江守藤原朝臣」については朝房と記している。
 為頼で検索すると、文治二年五月二四日と五月日の後白河院庁下文がヒットし、判官代として署判している「民部権大輔」と花押は同一である。一方、行房も二通の文書に判官代として署判している「摂津守藤原朝臣」と花押が一致する。行房は元暦元年四月二日に摂津守に補任され(『吉記』)、建久元年六月一九日の時点でも見任していた(『定長卿記』、ただし「国司一覧」による)が、建久二年四月日後白河院庁下文では「前摂津守藤原朝臣」と署判している。同文書は写で花押の確認はできないが、同一人物であろう。為頼が遠江守であった時期を特定する史料は管見では未確認であるが、行房は摂津守退任後、少しの間をあけて遠江守に補任されたことがわかる。遠江守はながらく甲斐源氏安田義定が守護と兼任していた。建久元年正月二六日に一旦は下総守に遷任したが、翌二年三月六日に還任していた。『吾妻鏡』建久三年一一月二十五日条には、永福寺供養で将軍の後ろに供奉した人々の中に「遠江守義定」がみえるが、実際には三月以前には藤原行房に交代していたことになる。その後、翌四年一一月二八日には義定の長子越後守義資が前日の永福寺薬師堂供養の際に女房聴聞所に艶書を投げたことにより梟首され、父義定も縁坐により一二月五日には所領を収公されている。さらに同五年八月一九日には反逆を企てたとして義定本人が梟首されている。
 藤原朝房は頼朝が征夷大将軍に補任された建久三年七月一二日の除目で陸奥守から遠江守に遷任しており、同八年一一月一四日にも遠江守藤原朝房が五節舞姫参入を勤めており、四年八月一三日の花押が朝房のものであることは確実である。遠江守は安田義定→藤原行房→藤原朝房と交代している。朝房の史料を検索すると、三条実房の日記『愚昧記』安元二年八月二五日条の建春門院七七日忌の記事に「蔵人朝房」がみえるのが初見である。治承元年三月二九日に実房が鞍馬寺に参詣した際に同行した中にも「朝房」がみえる。遠江守退任後の動向は不明である(少納言朝房、宮内少輔朝房、中宮権大進朝房とみえるのはいずれも別人ヵ)。朝房は藤原忠平の子師尹に始まる小一条流朝仲の子あるが、系図にも遠江以外の受領補任歴は記載されておらず、母などの情報も記されていない。

 

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