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2020年3月23日 (月)

嘉禎四年の出雲・隠岐守護2

 葛西時清と六角泰綱のいずれの可能性が高いかは微妙であるが、近江守護がなお父近江入道信綱であることからすると、葛西時清の可能性が高いと思われる。『鏡』でも葛西氏は「壱岐‥‥」と表記するのに対して(ただし、この時期はという限定が付く。壱岐守には三浦光平、宍戸家周など「国司一覧」にはみえない関東御家人が何人も補任されており、区別のための工夫がされている)、その後壱岐守となった六角泰綱は「壱岐大夫判官」(これが頼経上洛時の表記)「佐々木壱岐前司」「近江壱岐前司」と葛西氏との違いがわかるように表記されている。嘉禎四年初の守護のリストにも「出羽判官」(中条家平)がみえているように、泰綱ならば「壱岐左衛門」ではなく「壱岐判官」と記した可能性が大きい。いずれにせよ、複数の論者が検討することで、研究の精度は高まるので、渡邊論文を知った際の木下氏の驚きは大きかったであろうが、両論文(報告)があるのは歓迎すべきである。
 佐々木泰清の第三子頼泰以下の兄弟の多くは葛西清親の娘を母としている。泰清の父義清と清親の父清重は同世代(応保元年の生まれか)であり、承久の乱後も幕府で活躍している。佐々木泰清は安貞二年(一二二八)年には「隠岐次郎左衛門尉」とみえ、建暦元年(一二一一)前後の生まれであろうが(兄政義は承元二年=一二〇八生)、その妻で多くの子をなした清親の娘は頼泰以下の出生年から承久の乱前後の生まれで、葛西時清は清重の孫=清親の子で、泰清の妻の兄弟であろう。
 前置きがなお続いているが、嘉禎四年の石見守護は伊東大和前司祐時であり、西田氏論文で課題として残っていた前任の相馬胤綱からの交代時期に関するデータが得られた。因幡守護は海老名左衛門大夫忠行であるが、伯耆守護金持兵衛太郎の具体的人名の比定はなされていない。父兵衛尉(承久の乱の注文作成に当たった)の跡を継承した子であろうが、宝治合戦で三浦氏方となったことで、その後の系譜が不透明になっったためである。
 ようやく出雲・隠岐であるが、「隠岐次郎入道」とあり、両者とも留保を付けた比定となった。渡邊氏はとりあえず「二階堂基行(持明院基盛の祖父)ヵ」とし、木下氏は「佐々木義清」を第一候補とした。正解は両者が次点以下とした佐々木泰清で、「隠岐次郎左衛門」(リストには複数の「左衛門尉」がいるが、すべて「尉」を欠いている)であったのを筆写の際に誤ったのだろう。そのためには義清の情報整理が必要である。☆「隠岐五郎入道」の誤記で義清に修正した。実質的には政義・泰清が守護であったが、形式上は生存している義清であった。
 『鏡』にも筆写の際の誤りがあり、それが原因で混乱が生じている。佐藤進一氏は天福元年(一二三三)に出雲守護が義清の嫡子政義に交代していることが判明するとしたが、別稿で述べたように、泰清が隠岐守護であることが確認できるのは、初めて隠岐国に入部した貞永元年(一二三二)八月比(都万院四至堺注文写)である。嫡子政義が両国守護を譲られ、次いで政義の無断出家により弟泰清が継承したとの佐藤説に対して、出雲守護は嫡子政義、隠岐守護は庶子泰清に譲られたことを明らかにした。後鳥羽院が隠岐で死亡した延応元年の隠岐守護が泰清であったことは『隆祐集』(隆祐は『新古今』の編者の一人で、出雲大社領家であった藤原家隆の子)で確認されていた。

 

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