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2020年3月23日 (月)

嘉禎四年の出雲・隠岐守護3

 今回、嘉禎四年の時点で泰清が両国守護であることが明らかになったことで、政義が出家する前に、出雲守護が泰清に交代していたことになる。佐藤氏は出家を延応元年以前としていたが、仁治四年正月の将軍頼経が安達亭を訪れた際には政義が調度の準備にあたっており、且つ同年七月に定められた将軍が臨時に訪問する際に御供となる御家人の結番には泰清のみで政義はみえない。政義の出家は仁治四年の事件であった。『鏡』建長二年一二月二九日条には、政義の出家により、その所領が泰清に与えられたが、その後、政義に子息等が誕生したことで、出家を後悔し、旧領の一部の返還を求めたが許されなかったことが記されている。ここでは守護の交代には言及されてはいない。
 泰清の父義清の没年も問題となる。延応元年一二月二九日条に火災で家が焼失した「佐々木隠岐入道」については義清であるが、宝治元年一二月二九日に京都大番役勤仕の結番が定められた際の一三番の「佐々木隠岐前司」は「佐々木隠岐次郎左衛門尉」(泰清)の誤りであろう。義清が生存していれば九〇才前であり、且つ、守護を子に譲ってから一五年以上が経過しており考えられないことである。ここに泰清が含まれていないのも考えられない。泰清が隠岐守に補任された可能性もあるが、前後の史料を見る限り、入る余地がなく適当な時期が見つからない。
 以上、前置きが大半となったが、今回の嘉禎四年初めのリストにより守護研究はいくつか変更を余儀なくされる。伊藤氏の研究で、守護不設置の国や守護代とは異なる代行・名代との概念が提起されたことで、複雑化したかに見えたが、守護不設置の国数やその時期が大幅に縮小されることは確実である。また、守護代も複数いたことを前提とすれば、代行・名代の概念も不要になろう。確かに、守護正員と代官との関係で守護の代官宛の発給文書の書式が異なってくることに注目されたことは成果であったが、混乱を招いたのも確かであった。また、今回の例も、その時点で確認された史料を使って論理的に導き出された説が、実際とは違うことがめずらしくないことを示した。一次史料を重視するのはよいが、二次史料であっても信頼性を確認しつつ使っていく必要がある。一方、武家系図では常識だが、公家系図でも女性や姻族の情報は残りにくい。ただし、母親の情報は残る場合があるので、それを丹念につなぎ合わせて系図を復元すると、かなり有効な情報となり、従来の男系のみ重視した研究が誤りであったことが判明することも多い。

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