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2020年3月20日 (金)

山名義理について1

 以前、何の根拠もなく正平七年閏二月四日右衛門尉高義寄進状の高義が山名高義に比定されていたことを述べた。昨日、久しぶりに鳥取県立図書館(耐震工事により二月半ばから休館)に行き、いくつかの論文集と史料集をみたが、市川裕士氏「南北朝動乱と山名氏」(同氏『室町幕府の地方支配と地域権力』、2017)の中でも、山名高義との誤りが踏襲されていた。山名氏の専論であるのに、肝心な点の確認がなされていないことに驚かされた。その後刊行された同氏の『山陰山名氏』(2018)は未見であるが、どうであろうか。
 同論文で市川氏は正平一二年七月一三日修理大夫某書下(萩閥周布)の発給者も山名義理に比定している。確かに萩閥には肩に「山名義理也」と記されているが、比定が誤っている例も珍しくなく、確認が必要である。幸い翌一三年六月一三日修理大夫軍勢催促状(久利文書)が残っており、花押が確認出来る。同文書には端裏に「大路谷□継」(大日本史料によるが、山口県史では「季ヵ」継とする)とあるが、山口県史では発給者を桃井直信としている。正平一一年一〇月六日修理大夫某感状(永田秘録所収内田家文書)も残っており、そこには花押影が記されているようなので、これが根拠であろうか。直信は一時期、足利直冬と行動を共にしていたので、恐らくは正しいと思われるが、「端裏書」の意味は気にかかるところである。幕府方に復帰した直信が越中守護であった際の貞治六年に比定できる九月二三日直信書状(醍醐寺文書)で直信の花押が確認できるはずである。編纂所では大日本古文書シリーズの醍醐寺文書を公開しているが、なぜか巻末の花押一覧が除かれており、今日のところで島根県立図書館で確認したい。
 話を戻すと、修理大夫某が山名義理でないことは確実であるが、市川氏は確認せずに利用しているのである。山名義理の花押については、編纂所「大日本史料7編人名カードデータベース」で検索すると確認できるが、その初見である応安七年一一月二四日のもの(「修理権大夫(花押)」、八坂神社文書)を含めて、久利文書の花押とは異なっている。またその官職は「修理権大夫」である(系図にもそうある)。佐藤進一氏『室町幕府守護制度の研究』を参照すると、貞治四年二月五日に美作守護であった義理は宛所に「山名弾正少弼殿」とみえ、永和二年七月七日の時点では「修理権大夫」と署判して守護代入沢氏に命令している。
 市川氏の論文では、山名氏の家臣となった大葦氏(出雲国出身とする)や土屋氏(丹後国の在地勢力とする)についても言及しているが、太田亮氏『姓氏家系大辞典』のみを論拠にしており、実際の史料に即した確認という作業がなされていない。厳しい評価であるが、山名氏専論としての条件を欠いているとしか言いようがない。それは市川氏の問題でもあるが、指導教官の責任も大きい。

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