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2020年3月20日 (金)

山名義理について2

 本日、『醍醐寺文書』で貞治六年の桃井直信の花押を確認した。正平一三年の九年後のものであるが、同一人物のものとみることができる。ただし、正平一一年の内田文書は「修理権大夫」と署名しており、この後、南朝から修理大夫に補任されたことになる。続いて『山陰山名氏』を確認したが、これは市川氏編による過去の関係論文を収録した論文集であった。氏の論文では「安芸守護山名氏の分国支配と地域社会」(「史学研究」79、2013)を確認した。「貞治~応永年間の芸石政治史」を執筆した際に、未見であったので少し気になっていた。ただし、飯分徹氏の論文「応永の安芸国人一揆の再検討」(「史観」70、2014)以前の論文であり、岸田氏と同様、山名満氏の安芸守護補任を応永一〇年(一四〇三)としている。これが飯分氏の論文により応永一一年の誤りであることが論証された。
 市川氏の論文には見慣れない文書が引用されていた。年未詳四月二六日常煕(山名時煕)書状(大日古文書・小早川家証文三一八)であり、小早川竹原殿(弘景)に対して、安芸国が御料所となり、守護常煕に預け下されたことと、将軍から御尋があるので当知行の支証を帯して六月中に出帯せよとの命令が出たことを受けて、六月中に参洛すべきことを伝えている。この文書を田中淳子氏が室町幕府-守護体制の変容をテーマとする論文の中で、応永一〇年(前述のように一一年の誤り)に山名満氏が安芸守護に補任された際のものではないかとし、市川氏が同意して説明を加えている。応永一一年に、安芸国人に対して当知行新本所領等の支証を八月五日までに代官に出帯させるよう命じている(福原文書)。年次が一年違い、出帯する月も違い、さらには後者では上洛せよとは述べられていないにもかかわらず。市川氏(田中氏も)は苦しい解釈で整合性を確保しようとしているが、所詮不自然な考えでしかない。
 四月二六日文書の年次に関する通説は承知していないが、これは正長二年(一四二九)のものである。小早川弘景は応永三四年(一四二七)一一月一〇日に嫡男太郎四郎盛景に所領を譲っているが、その二年前の応永三二年九月一六日に将軍義持が安堵を行っている。年次が前後しているのは、一旦安堵された後に譲状を変更したことになる。次いで、応永三五年に義持が病死し、籤で選ばれた同母弟義教が還俗して将軍となった。これが、小早川弘景に支証提出が求められた背景であり、四月二六日文書は正長二(永享元)年のものである。弘景が上洛期限が過ぎた七月二〇日に再度譲状を作成し(この時点では出家して陽満)、一〇月二八日に義教が御判御教書で安堵し、一一月八日に常煕が施行している。応永三四年の譲状にあった安芸国高屋保が消え、後家女子分に関する内容が付け加わっている。小早川家証文で四月二六日書状の前にあるのは応永三二年の大内徳雄(盛見)預状で、後に続くのは永享四年に比定されている義教御内書である。田中、市川氏の説には無理があり、成り立たないことは明白である。永享元年中には常煕が安芸守護であることが確認されるので、四月二六日の直前に補任され、国内の将軍御料所の扱いを委ねられたのではないか。それに伴い奉公衆でもある小早川氏に支証の提出と、それに基づく義教による安堵がなされた。

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