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2020年3月24日 (火)

河上郷と都治郷1

 以前からよくわからないのが両郷の領域である。『島根県の地名』では中世の河上郷に続いて、江川東岸の近世の市村、上下河戸村を記すので、ここまでが河上郷で、下都治以東を都治郷と考えているのだろう。ただ、そうした場合、貞応二年石見国惣田数注文で、都治郷が二四町三反大、河上郷が一四町五反三〇〇歩という両郷の田数と齟齬している。河上郷にはこれに江川西岸の領域が加わる。河上氏から独立した都治氏は都治郷とその東側の波積郷を支配したとされるが、波積は田数注文に田数八丁五反半とある大家庄内稲富に比定されている。貞和七年正月 日岩田彦三郎軍忠状には、没落する高師泰軍を追って江川を渡り、河上城を退治したとある。河上氏の本拠であった河上城が江川東岸の松山城のことであるのは確実であるので、上下河戸村までが都治郷で、市村から河上郷ではなかったか。『都治根元』には「河上ハ、田原、久佐・永屋・佐野・太田・千金六人也」とある。久佐・永屋・佐野は那賀郡西部の河上氏領であるので、江川を挟んだ太田・八神・千金・市村・田野が河上郷であろう。田数では都治郷に及ばないが、水運の中心地帯である。ただし、那賀郡西部を併せると、田数でも都治氏領(都治郷+波積郷)を上回る。
 大永二年(一五二二)に尼子氏が初の石見国への大規模な軍事行動を展開した時点で、都治氏は福屋氏の支配下にあった。福屋氏領である大家西郷から西隣の都治氏領に勢力を拡大したのであろう。そして福屋氏と尼子氏の交渉の結果、都治氏は当主が切腹し滅亡の危機に瀕した。ただし、その遺児が母の実家である河上氏のもとで生まれ、育てられていた。享禄三年(一五三〇)には尼子経久の子興久が、経久に不満を持つ国人をまとめて父に反旗を翻した。そうした中、石東は塩冶興久の勢力圏となり、福屋氏が興久に都治氏跡の継承を求めたが、それを知った本家河上氏もまた興久に使いを送り、結果的には都治遺児による家の再興がみとめられた。その後大内氏と尼子氏の対立の中、天文一〇年代前半には河上氏が滅亡し、今度は河上郷に福屋氏の勢力が及んだ。過去の経緯から同郷内では福屋氏への反発は強く、それが福屋氏と対立する小笠原氏と結ぶことになったのではないか。
 

 

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