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2020年3月29日 (日)

戦国期の斐伊川東流路3

 出東郡内の大社領が神門郡内に移った原因としては斐伊川の東流路が移動したことが考えられる。一三世紀半ば過ぎには、東流路は北島村の北側から、現在よりも東よりのルートで北東方向に進んでいたと思われる。天正元年以前の洪水に関する情報はないが、やはり洪水により、流路が北東方向から北方向に変わり、大社領であった武志郷の一部と鳥屋郷が東流路によって分断された。それを受けて、東流路東岸になった大社領を神門郡内に移動させる原因になったと思われる。
 それに関わるのが、尼子氏による原手三郡の指定である。従来の神門郡、出東郡、大原郡(中郡とも呼ぶ)を併せて原手三郡とし、直臣である冨田衆を原手三郡奉行職に補任して出雲国西部への支配を強化した。斐伊川東岸の斐川平野の中で唯一楯縫郡内である多久郷に所属した久木村に富田八幡宮を勧請した。並行する形で、宍道湖北岸の楯縫郡、秋鹿郡、島根郡を島根三郡とし、これまた三郡奉行職に富田衆を補任した。それと関係するのが、享禄二年六月二八日の経久による佐陀神社への社参であろう。
 神門郡内塩冶郷を支配する塩冶氏に養子に入っていた尼子経久の三男興久は、本来、ともに勝部宿祢領ということで関係の深かった島根郡内の所領に対して経久が干渉を強めたことに不満を強めた。軍記物の記述であるが、興久の所領要求に対して、経久は国外の備後国内の所領を与えると回答した。その所領は尼子氏の支配地ではなく、軍事活動による制圧を必要としていた。これを聞いた興久は、原手の所領を要求したとされている。
 時期の特定には情報が不足しているが、由緒書の記す天正元年ではなく、一六世紀初めに斐伊川東流路が北東から北に変わったことを契機として、出東郡内の大社領が神門郡内に移動したと思われる。
(付記)当初の「嘘も積もれば真?となる」との題名から変更した。

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