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2020年3月24日 (火)

河上郷と都治郷2

 天文二〇年(一五五一)に大内義隆が家臣の陶晴隆により滅ぼされると、大内氏方であった石東地域の国人は生き残りを図ってそれぞれが独自の動きを展開する。小笠原氏は天文一〇年代半ばまでは尼子氏との関係が強かったが、尼子氏が西部への軍事活動に消極的だsったことから、大内氏方との関係を強化した。福屋氏も吉田攻の時点までは尼子氏との関係を強めていたが、その失敗後は大内氏方となっていた。それが義隆の滅亡後、小笠原氏は陶氏方となり、福屋氏は新宮党を通じて尼子氏との関係強化を目指して小笠原氏と対立した。それが天文二三年一一月には尼子晴久により新宮党が討滅され、天文二四年一〇月には厳島合戦で毛利氏が陶氏を破ったことで、状況は一変した。福屋氏は毛利氏と結び、小笠原氏は尼子氏と結んだ。弘治二年には尼子氏が一旦は毛利氏方を破って石見銀山を掌握し、小笠原氏も毛利氏との戦いによる苦境を脱したが、間もなく防長制圧した毛利氏が本格的に石見国への軍事活動を展開した。これを受けて永禄二年には再び晴久が小笠原氏救援の出兵を行ったが、今回は、福屋氏が守る松山城で江川の渡河を阻まれて、本国に撤退したため、孤立した小笠原氏は毛利氏に降伏した。ただ、この間、福屋氏は軍事情報を提供して尼子氏との関係も維持していたことが小笠原氏の降伏により露顕した。一方、河本郷を放棄後、毛利氏方として軍功を積んだ小笠原氏に、福屋氏領の一部が与えられた。
 以上が、永禄四年(一五六一)五月時点の河上氏旧領をめぐる福屋氏と小笠原氏対立の背景であった。清泰寺など旧河上領の人々が福屋氏に対して反発する背景は前述の通りであった。そうした中、福屋氏は状況を打開するため、再び尼子氏と結んだが、将軍による毛利・尼子氏間の和談が進んでいたため、尼子義久本人は動かず、福屋氏は石見国内の本拠を失った(このあたりは過去のブログの記事の記憶を辿って記述したので、やや不安定)。都治郷と河上郷の範囲と福屋、小笠原氏との関係を述べた。
付記:『島根の合戦』編集時には自分以外の執筆者の原稿を事前に読んだが、縄張り図はあっても関係地図がないため、非常に理解しずらいとの感想を持った。今回も参照したが、やはり同じことを思った。当方担当分は必要な関係系図、地図はすべてソフトで自作して添付した。また、ブログの文中の東と西が逆になっていた部分を修正した。

 

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